マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの家族はありや

参議院選挙が終わった。出口調査などですでに予想されていたとおりの結果でしかなく、自民党を筆頭とする改憲派の勢力が過半数を占めるものだった。個人的にはひそかに期待していた改憲派の憲法学者として知られる小林節慶應義塾大学名誉教授が率いる「国民怒りの声」も、これまた予想されていたとおり、台風の目となることはできなかった。今回の選挙結果を受け、早速安倍首相は、改憲について前向きな姿勢を表明している様子である。理性・知性では国は動かないのだなぁ、と改めて思うのだった。とはいえ、研究者というのは理性・知性で語らなくてはならないという生業なので、心中穏やかではないのだが。

さて、投票日となった7月10日、毎日新聞に掲載された西原理恵子『毎日かあさん』が僕の周辺ではちょっとした話題になっている。

『毎日かあさん』は、先週も「離婚ラッシュ」という内容で、夫の無理解をきっかけに離婚する50代女性の話だった。

— 西原理恵子 (@riezo0608) 2016年7月5日

この漫画を読み、とある家族のことを久しぶりに思い出した。ずいぶん前のことだが、知り合いの家族にほぼ同じようなことがあったのだった。

その一家は、夫の方は苦学の末、とある士業の資格を取得し地元の名士として活躍していた方だった。その「名士」としてたどり着いた先が日本青年会議所だというのが、アレだと思わなくはなかったが、端から見ると奥様も含め、皆悠々自適に過ごしていらっしゃるように見えた。そして、子ども達がみな独立し、それなりに展望が開けたところでこの漫画同様にやはりアパートで一人暮らしを始めた。個別にこの奥様と電話でお話しをしたのだけれども、その段階ですでにガンを患っていて、まさしく最後だからこそ「自由に生きたい」と思ったらしい。

彼女は子どもが嫌いなわけでも、これまでの人生がいやだったわけではない。夫に対しては憎しみを持っていた様子だったけれども。そして、子ども達全てが、家を出て一人暮らしをした彼女に「お母さんは病気だから」といった対応をしていた。「お母さんは病気」という言葉にあるのは、「精神的に病気」ということで、ガンのことではない。言わば「お母さんは狂っている」という形で身近な人の行動を処理できなかったその家族に身震いしたのを思い出す。犠牲者として彼女は夫からも子どもからも虐げられていたのだろう。イプセンの『人形の家』は、現代の日本にもあったのだ。

薄い縁でしかなかった僕にこういう話を語らずにはいられなかったところみると、彼女は大変孤独であったろうと思う。そして今回の漫画をみて非常に腑に落ちたのだが、実は一見すると地元の名士で、傍から見るとすばらしいご家庭だったこの家庭でさえ、子どもの非行、性的虐待、自殺未遂といった家族間に深い闇があった。「家を出た」彼女の行動はそうした家庭内不和の一つの現れに過ぎず、家族の中で弱者が常に再生産されていたのだろうと思う。ファミリーカウンセリングなどのしかるべき治療が必要だったのだと今ならば思うが、当時の自分にはそうした知識がなかったのが悔やまれる。最も、それを伝えたからと言って、ファミリーカウンセリングを受けたかどうかは別問題だが。

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周囲の憲法学者は、小林先生も含めて「改憲はしょうがないにしても、自民党草案(及び産経新聞草案、青年会議所草案)はあまりにも酷すぎて議論に値しない」という立場の方が多い。

その「議論に値しない」箇所の一つが、「家族」に対する規定だ。民進党・共産党は今回の参議院選挙で、改憲問題を解くに9条を中心にして行っていたが、個人的には「家族」についての自民党草案の変なところを強調した方がよかったのではないかと思っていた。

「自民党憲法草案前文」にはこうある。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する

また「自民党憲法草案第24条」にはこうある。

第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない

この文言に違和感をもたない人も多いと思うのだが、日本会議をベースにする自民党の改憲派は、「家族」というものをやたら強調する。

「家族が支え合うのが当たり前」だと思っている方にはピンとこないかもしれない。だが、世の中はだれもが暖かい、思いやりのある家族関係の中で生活しているわけではない。むしろ、一見あたりまえの様に見える家族関係の中に、これまで無言の圧力をうけて「発言が許されなかった」方はたくさんいる。女性・子ども・老人という家庭内の弱者がそうだ。

西原理恵子の漫画のように、また知人の家のように、そして全国に「家族」という幻想の中で、自由を享受できずにいる人々(特に女性)はたくさんいる。自民党草案は「家族は、互いに助けあわなければならない」と言う言葉を通して、「女性は家に入って、家族に尽くせ」、誤解を恐れずに言うと「女性は家族の犠牲になれ」と言っているのだ。この文言が大げさでないことは、菅野完(2016)『日本会議の研究』扶桑社新書、を読めばよく判る。

現行の日本国憲法が「個人」をベースにして諸権利を規定しているのと対比すると、「家族」をベースに変更している点において自民党草案は明らかに退化している。まさに「歴史はくり返される」としか言いようがないのだが、1940年にドイツに屈服することで誕生したフランスの親ナチスであったヴィシー政権が、それまでフランスが維持してきた「自由・平等・博愛」を「祖国・家族・労働」に変更したことと変わらない。

「家族」を温かい、優しいもの、イメージするその一方で、その「家族」の中にあるどろどろしたものに目をつぶった状態であることからは目を背ける。西原理恵子の『毎日かあさん』が描いたのは、そういう世界の話なのだ。毎日新聞がこの漫画を投票日当日に掲載したのは偶然にすぎない。しかし、昨日の選挙の背後にある憲法改正のイシューには、こうした家庭の中で苦しむ人々を更に苦しめる要素もあったのだ。

文中で紹介した家族とは、現在は交流がなくなったので詳細がわからない。彼女が今も存命中なのかわからないけれども、少しは自由に生きているのか/生きられたのだろうか、と思う。

寺山修司にならって僕はこう書こう。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの家族はありや

寺山の本歌は、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの国家はありや」。今や、家族は「国家」による想像の産物になってしまった。