世界が憎しみで満たされる前に

約二週間の出張からチェンマイの部屋に戻る。

戻って早々に本務校のグループウェアを開くと、「フロリダ州への渡航予定者は届け出をするように」という本務校本部から緊急のお達しが届いていた。何のことかわからず、とりあえず放置したままいくつかの事務仕事をこなし、そして遅い夕食をとってからNew York Timesオンライン版でその理由を知る。

なんと哀しい事件だろう。最多の死傷者を招いた銃乱射事件であったことも、同性愛者コミュニティを狙っていることも、容疑者が亡くなったことも、ISが犯行声明をだしたことも。被害者の家族・知人の哀しみを思うばかりでなく、LGBTやムスリムの友人達の顔が思い浮かび、その友人達がさぞ哀しんでいるだろうと思うととても辛い。

僕の周囲にいるLGBTの友人達はとても優しい。一見すると怖いように見える人たちもいるけれど、実はとても傷つけられた経験を持ってきたことが多い。そんな彼ら/彼女らは、僕の知る限りLGBTであることに悩んできた。LGBTである、ということは、誰もが男として、または女として選んで生まれることができないように自分で選べるものではない。気がついたら、「LGBTでしかなかった」というものでしかない。そんな生まれついてのことで、自分で選択できないことで傷つけられてきた僕の友人達は、自分が理不尽に傷つく対象とされていたことを超えて、とても優しい。

僕は同時に宗教もまたそういうものだと思う。遠藤周作の『沈黙』にあるように、我々が宗教を選ぶのではなく、神が我々を捕まえるのだと思う。哀しいことに今回の事件について、ムスリムに対するバッシングもすでに始まっているようで、ムスリムの友人達がどれだけ哀しんでいるだろうと思うとこれもまた辛い。アッラーアクバルの声をぜひ聞いて欲しい。受験・結婚・健康と言った自分の願望があるときにしか神と向かい合わないような我々と異なり、あんな美しい旋律で、生活の一部として日に何度も神と真摯に向かい合っている人々を一部の暴徒を基準にして判断するべきではない。

LGBTであるというだけで、ムスリムというだけで、つまり「生きている」というだけで、憎悪の対象となることを知るのはどれだけつらいことだろう。本当に残念で、こんな哀しいニュースはもう聞きたくない。

オーランドの銃乱射事件の後、地元の教会ではゲイグループコーラスによる曲が献げられたとのこと。歌っている彼ら/彼女らこそ苦しく、哀しいだろうに、様々な思いを律して、耐えて調和を求めて歌っている。残念なことに、虐げる方ではなく、虐げられてきた人ほど理性的で優しく、苦しみを自分達で止めて拡散しない強さを持っていると思う。

我々が我々がアメリカから学ぶべきものは、かろうじてこういう形でアメリカのコミュニティに残っているしなやかな強さなのではないか。世界が憎しみで満たされる前にできるのは、決して安倍政権のように脊椎反射的に「テロに対抗する武力を持つべき」なんてアピールすることではなく。