タイ山地民との出会い

タイ山地民(Chao Khaao)の慣習法について研究しています。そのきっかけはとても単純なもので、「自分がやらなきゃ誰がやるんだというトピックに出会ってしまったから」としか言いようがありません。
そのテーマとは幼児売買春。1990年代のことですが、タイ北部の街で山地民の少年少女が買われ、売られている様子が日本でも盛んに報道されていました。それまでについて研究していたのですが、当時の指導教官に薦めで、初めて訪れたタイのNGOに通い始め、そこで事の重大さに気付きました。
修士課程までは原発の研究を行っていたのですが、博士課程を出ることにはすっかり自分のテーマとして再度取り組むことになっていました。博士課程に入るまで、タイ語など触れたこともなく、海外に出ることもほとんどありませんでした。通常の研究者のルートからすると、「修士と博士のテーマがここまで大幅に異なる」なんてことはほぼありえないのですが、当時の僕をめぐる環境からすると、それ以外の選択肢は(このあたり書けない理由もまた多すぎるのですが)ありえませんでした。
何よりもショックだったのは、当時こうしたセックスワーカーをさせられている子供たちが少数民族出身で、かつその顧客に日本人が多いという事実でした。加えて、山地民に対して非常に侮辱的な言葉が投げられていたのも僕を大変驚かせました。
原発建設のために土地を追われていった人々と同じように、山地民の子供たちだけでなくその親の冷たいまなざしの奥に、社会に対する絶望感をひしひしと感じました。
当時山地民の貧困、HIVに関する研究や女性のエンパワーメントに関する研究は既にたくさん提出されており、その一つ一つの研究はとても敬服するものばかりでした。ただ、僕ができる研究はそうではないと思いました。むしろ、なぜそうした「子供が売られる・買われる」という状況が生まれ、山地民は拒否しないのか、ということが気になってしまいました。「貧しさ」と「貧困」の差異については、既に多くの方から御指摘があるとおり、収入が少ないという意味の「貧しさ」とセーフティーネットが作用していない(そもそも存在しない)「貧困」とは質がちがうものです。
僕が知りたかったのは、エンパワーメントされない人々の方なのです。そしてタイの法制度は東南アジアの国々の中でも極めて近代的なものであるにも関わらずなぜ機能していないのでしょうか。

そんなことが僕の初発の問題意識でした。

少数集団の紛争処理制度の研究タイ国モン族を事例として(研究課題番号:18830110)

初めて取得した科研費研究では、発展途上国における地域開発計画において、少数集団の意志反映が十分に可能である法制度の構築の可能性について研究を行いました。
近代化政策を押し進める発展途上国では、政府主導による地域開発が実施される一方で、それらの開発を原因とする環境破壊や生活環境の破壊といった先住民族・少数民族への権利侵害が多々生じています。
一般的に人々に生じた権利侵害が社会問題として認識されるには、(1)被害者間で権利侵害が行われていることが認知され、(2)被害者間で運動体が組織され、(3)社会の他の成員に対してアピールされていく、というプロセスが必要となりますが、実はこれらのプロセスのそれぞれの局面において人々には多くのリテラシーとコストが要求されます。そのため、深刻な権利侵害が発生していながらも開発側も住民側もそれを認識できず、また発言する機会を失っていることが多々あります。少数民族の権利意識とその表出に関わる研究は、特に政治的弱者への人権侵害という、急を要する問題であるばかりでなく、開発に少なからず参与している日本のODAの見直しなどの立場からいっても早急に対処すべき課題であるといえます。
そこでこの研究では19世紀以降タイに移住し定住するに至ったモン族(HMONG)が、タイの近代法制度に依拠しない紛争処理制度の利用実態を調査しました。具体的にはタイ山地民モン族の紛争処理について現地フィールドワークとアンケート調査を並行的に進め、少数民族独自の慣習法とタイの法規範が衝突した場合にどのように処理を行うか、モン族の2つの村と比較対象としてカレン族の村を中心に大規模な調査を行いました。
本研究の成果として、他地域の開発においても伝統文化に基づいた紛争処理手段を持つ少数民族が近代国家の中で生活するにあたり自らの法規範と国内法との適合の様態について、記すことができたと考えています。

発展途上国における法化現象の研究(研究課題番号:21730014)

次に行った科研費研究では、は少数民族の意志反映が十分に可能となる法制度の構築・運営についてフィールドワークを元にして考察しました。事例としてはタイ山間部に居住する山地民のモン族をとりあげ、タイの司法制度に依拠しない伝統的な紛争処理制度が近代司法制度と共存している実態をフィールドワーク調査で明らかにしました。
例えば、タイの国内法では重婚や17歳以下での結婚が禁止されています。また離婚の際の財産分与と子供の親権に関する規定があります。ですが、複婚(法律学でいう「重婚」とは概念が少し異なります)を行うモン族の中では、複婚を行っている事例、17歳以下のが現在でも散見されます。そう彼らはあえてタイ法を使わないことで、自らの慣習を保持しているのです。するとここには法整備が進みつつある発展途上国の中で、「個人の権利を守るために生まれた法をあえて使わない」というパラドキシカルな状況が生まれていることに気付きます。日本の法社会学者が、民法の家族法が実際には民法制定者が想定したとおりの状況下で使われていなかった状況を丹念なフィールドワークで描き出したのとおなじ状況がタイでも生まれています。
さらに注目すべきなのは、山地民が大法を利用しない理由を説明する際に、「無知だから利用しない」ということではなく、彼らは近代法を利用するメリットとデメリットを踏まえた上で「あえて使用しない」という手段を選択しているという事実です。こういった現象を説明するに当たって、教育学・女性学・開発学といった様々なアプローチがありうると思うのですが、「法化」という概念を用いて説明しようと考えました。「法化」とは ルーマンやトイプナーなどによって紹介されるようになった概念の一つですが、簡単に言えば「法が氾濫することによって、私たちの生活に様々な問題が生じている状態」ということができるでしょうか。
特に発展途上国各国では福祉国家という枠組みの中で法によってしか保障されない人権が、法が生活に介入しマイノリティ/マジョリティの区分が曖昧化することによって逆にマイノリティの権利が踏みにじられるという現象が生じています。そうした発展途上国では、マイノリティがマジョリティの法制度に飲み込まれざる得ないという状況はあっても逆のケースはありません。
本研究の成果として、これまであまり目が向けられていなかった発展途上国、さらにマイノリティの間で生じている法化現象について記すことができたと考えています。

近代法制度におけるマイノリティの固有法と法化現象(研究課題番号:24730011)

現在取り組んでいる科研費研究では、更に「発展途上国」という枠を超え、先進国のマイノリティについても考察を行っています。
マイノリティによる法制度の構築・運営について、(1)マイノリティの伝統的な婚姻制度がタイ及びアメリカの近代法制度とどのように共存し、または互いに牽制しているのか、(2)マイノリティの固有法がどのような形で近代法制度と共存しているのか、という2点を基に、「法化」概念をベースとした理論的考察とフィールドワークによる実証分析を行いました。
フィールドワークの調査対象として,モン族(HMONG,中国名:苗族[ミヤオ,MIAO])のうちタイ山間部に居住するコミュニティ2箇所,アメリカ合衆国ミネソタに移住したコミュニティ1箇所,合計3箇所を選定し,それぞれのコミュニティでの比較を通して上記の問いに答えようとしました。
理論的な落としどころとしては次の通りです。
まず、世界規模で生じているマイノリティの権利問題について、「人権」の保障が一国家内で進むことが「マイノリティの権利」を奪いかねない状況が多々生じているという状況が生じています。またそうした状況を解明するために、「法化」現象の解明を通して、その問題に応えることができると考えています。
その手掛かりとしてトイプナーの「法化」を元にして、本研究が「法化」をめぐる多くの先行研究の中で「法の実質化」説に立つことを示し、更にハーバマスの「法化」論を踏まえた上で,マイノリティが近代法制度に参加できなくなっている要件について論じようとしています。
また、難民の移住によって生じたモン族のネットワークを通して、様々なコミュニケーション手段を用いて、どのように判断の基準となる情報入手を可能としまた住民運動を形成したかについて調査を進めてきました。特に他の山地民と異なり、亡命した親戚の存在と、インターネットがモン語の使用と親和性が高かったことが,ナーン県で生じたモン族による社会運動の発生に大きな影響を与えたことを調査しました。
加えて、旧来行われていた伝統的リーダーによる村内での紛争処理は伝統的リーダーの地位の低下に伴い、郡長(ナーイアムプー)というタイの公的立場にある人物によって解消されていく事例を発掘しました。それはタイ政府から一方的にモン族の伝統的な紛争処理が奪われるという形で行われるのではなく、山地民がタイ国の法制度という新しい環境へと自らの紛争処理システムを戦略的に適応させていった過程として示しました。
また成熟した法制度と法体系を有するアメリカに移住したモン族のコミュニティ内部で、アメリカでは違法となる誘拐婚(kidnapping marriage)が実施されていた2つの事例を紹介しその意味について論じました。ホスト国が強固な近代法体系を有しているゆえに難民として移り住んだモン族が自らの固有法を守るために秘密裏に誘拐婚を実施しました。その結果モン族の内部でも更に弱者として位置づけられる女性への人権侵害が生じていることを指摘しました。
近代化のさなかにあるマイノリティによる法化現象を解明することは、単にその対象が未踏の研究領域であるからだけではなく、先進国の法化現象発生メカニズムの解明にも有効であると考えています。

 

関連する論文

  1. 吉井千周(2002)「マイノリティにおけるインターネットの活用―タイ王国ナーン県、パ・クラン村のモン族事例報告―」 情報処理学会『人文科学とコンピュータシンポジウム論文集』第13号,pp. 185-192
  2. Senshu YOSHII (2002) A Study of Minority's Internet Usage - A Case of Pa Khlang Hmong villager in Nan Province, Thailand, PNC Annual Conference and Joint Meetings 2002, Proceedings pp.122-123
  3. 吉井千周(2004)「タイ近代法システムに対するモン族の適応戦略」湘南藤沢学会『SFC Journal』第3号,pp. 94-117
  4. 吉井千周(2004)「変容する山地民の紛争処理―モン族の離婚紛争を事例として」アジア女性交流・研究フォーラム『アジア女性研究』第13号,76-83頁
  5. 吉井千周(2000)「NGOからみたIT政策」『次世代サイバースペースの研究―ハイテク・リサーチ・センター整備事業研究報告書 (平成12年度)』慶應義塾大学SFC研究所、全697頁、23-228頁、編著者:慶應義塾大学SFC研究所サイバースペース研究センター
  6. 吉井千周(2008)「山地民の法意識(一)-モン族を事例として-」『都城工業高等専門学校研究報告』都城工業高等専門学校第42号,pp.49-58
  7. 吉井千周(2012)「タイにおける山地民政策の変容」アジア法研究Vol.6, No.1,pp. 175-184
  8. 吉井千周(2013)「タイにおけるマイノリティの固有法とその社会の法化現象についての研究-モン族を事例として-」鹿児島大学、博士(学術)
  9. 吉井千周(2014)「モン族コミュニティにおける情報メデイアの利用」『都城工業高等専門学校研究報告』都城工業高等専門学校第48号,pp.113-123
  10. 吉井千周(2016)「固有法の適応と変容:在米モンコミュニティの誘拐婚を事例として」『アジア法研究 2015』, Vol.9, No.1, pp. 1-18

公的研究資金の取得状況

文部科学省研究費補助金

  1. 2006年10月 平成18年度文科省科学研究費補助金[若手研究(スタートアップ)](平成18年度〜平成19年度)課題番号18830110「少数集団の紛争処理制度の研究 タイ国モン族を事例として」研究代表者 KAKEN
  2. 2009年4月 平成21年度文科省科学研究費補助金[若手研究(B)](平成21年度〜平成23年度)課題番号21730014「発展途上国における法化現象の研究」研究代表者 KAKEN
  3. 2012年4月 平成24年度文科省科学研究費補助金[若手研究(B)](平成24年度〜平成27年度)課題番号24730011「近代法制度におけるマイノリティの固有法と法化現象」研究代表者 KAKEN
  4. 2016年4月 平成28年度文科省科学研究費補助金[国際共同研究加速基金](平成28年度)「近代法制度におけるマイノリティの固有法と法化現象(国際共同研究強化)」研究代表者