疑似科学と地域興し

福島について書かれた早野龍五・糸井重里(2014)『知ろうとすること。』新潮文庫、はとても面白かった。僕は、原発の安全・危険といった議論よりも、「人々が議論から疎外されるシステム」の方に興味がある人間で、原子力について僕みたいな素人よりも詳しい方がより正確に語ろうとする努力には本当に頭が下がる。もちろん早野龍五が叩かれていることを承知の上で。

人間は「科学的になろう」とすることができる。その結論が間違った方向に行っているのかもしれないが「科学的に物事を認識し分析しよう」とする試みを繰り返す事(これを市野澤先生の言葉を借りて「リスク・コンシャスな主体になろうとすること」と言い換えてもよいかもしれない)は人間の美点の一つだと思う。そういうことを改めて気付かせてくれたのがこの本だった。

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さて、先日訪れた姶良市の町おこしについて、知人からメールがきました。「蒲生町で楠ヒーリング」というイベントについてです。ちなみに姶良市の蒲生地区はEM菌関連のイベントもしているようで、絶望的な気分になります。

本人の許可がないので転載はしませんが、「一生懸命やっている町おこしをバカにするな」という趣旨の文章でした。バカにする/しないは、主観的なものなので、こちらが「誤解です。批判とバカにするを一緒にしないで下さい」といってもたぶん通じないと思いますので、それはそれで構いません。

「自然の中でリフレッシュ」という発想は僕は嫌いではありませんし、場所としてそういう心をリセットできる空間があるとは思います。緑の空間って僕も嫌いじゃありません。プラシーボ効果についてもそのとおりだと思いますし、かなり怪しいと思われるマイナスイオンやら何やらにものっかってかまいません。何より僕自身がある種「非科学的」と言われるキリスト教の信者なので。

「一生懸命頑張る」ということは主観的な問題ですが、「手のひらでヒーリング」「楠がヒーリング」おまけのEM菌までひっくるめて、これは客観的に語れないものです。

原発のゴーサインを科学的な検討を重ねて出し、人々の不安を一蹴してしまうこの国で、なぜ「自然の中でリフレッシュ」については科学的な検討もないままイベントとしてお金が落ちるのかは正直よくわかりません。僕はこの問いについての答えを持っていますが、もったいぶっているのではなく、それはおそらくここには「書けない」話です。原発を推進する言説と、自然の治癒力(<あるんかいそんなもん)を使った町おこしは実は同根だろうと思います。

有害としかいいようがないと思います。