『きみに読む物語』
いつものリハビリの帰りに『きみに読む物語』を観る。
ストーリーそのものは、はじめの10分ぐらいでエンディングまで容易に想像がついてしまうような単純なもの。だがとにかくよかった。いつの時代もシンプルな恋愛物語は美しいのだと思う。というかいつの時代も人間の恋愛は実にシンプルで、好き/恋する/愛するという感情はストレートなもので、誰もの心を打つものなのだろう。
中でも障害を乗り越え、時を超えて愛を実らせる二人の苦難が上手く描けていたと思う。主人公ノア役のRyan Goslingの演技がよかったのもあるが、アメリカ南部の労働者階級でホイットマンの詩編を読むノアとその父(<Sam Shepardが演じていて、かなり教養がある人のように描かれていた)の描き方が特筆すべきだったと思う。道路の真ん中で転がって信号を見るという半ば哲学的な振る舞い、労働者階級で、ダンスして、夜ごと詩編を息子と読む親子というのもよかった。「教養」が人生を豊かにすることを暗示的に示していてそのことも本当によかった。
また、James GarnerとGena Rowlandsが演じる老夫婦の姿もよかった。映画の中のシーンは永遠に「美しいもの」として保存される美化された世界だけれども、年をとった夫妻が抱き合ってキスして泣きながら愛を確認するシーンもまた美しいものだ。『東京タワー』のような美男美女が繰り広げなくては(非)純愛ものが成り立たないような貧困な邦画の映画制作の姿勢は反省すべきだろう。(<その意味では井筒監督にはがんばってほしい。)
映画の美しいシーンが永遠に生きるのに比して、人生にはいつまでもエンドロールはでてこない。僕自身は映画のノアにやけに感情移入しちゃっていて、やたら泣いてしまった。30を超えて年齢重ねると涙もろくなっていやだなぁ。
ノアが(映画の中で待った)7年という歳月の重み。映画だから書けるのだろうか、それとも現実にもああいった待ち方ができるのだろうか。
・・・と、とても満足だったのだがそれでもたった一つ不満がある。それは上映後にケミストリーのコメントが流れたこと。ケミストリーは歌の上手い歌手だと思うけれど、あのコメントには正直がっかり。僕は川崎チネチッタで見たのだが、なんであんなありきたりのつまんないコメントを上映後に流すかなぁ。映画の余韻に浸っているのにあれがなかったらもっとよかったのに。
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映画の後、楽器店で新しい楽譜を、電気店で新しい炊飯器を買う。買い物に出かけるとなぜか買い癖がでてしまい「生活必需品」でないよけいな買い物をしてしまう。
武蔵小杉の駅で降り、自宅へ帰る途中の花屋でピンク色のスイートピーに出会う。そこだけ春の色が溢れているようで、花の色が嬉しくてつい5本ほど買い求める。
部屋に帰ってきて、そのスイートピーを生ける花瓶がないことに気づく。こういうときに限ってワインボトルもすべて捨ててしまっていて、泣く泣くコーヒーの空き瓶に活ける。
教え子のところにも春が来たし、この部屋にもスイートピー5本分の春ぐらい来ていいのかもしれない。
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などと書いていたら、右手に激痛が走る。今病院からかえってきたところで、きつめの注射を一本打って貰う。俺の右手はますますだめらしい。正直へこむ。
ノアは彼女のために家を造ることができたけれど、俺はなにもできないなぁ。あかんなぁ