新しい教会にて
家から最も近いカトリック教会に向かう。バイトや体調不良が続いたため、ミサをうけるのはほぼ1ヶ月ぶり。この間、横浜や二俣川の教会で祈ることは多かったが、やはりミサに参加すると一人の独善的な祈り(祈り、なんて言葉が抵抗あるなら「思考」でもいいんだけれど)と異なり、多くの発見がある。
以前、知人の夫妻が、「苦しいときに聖書を開くと、不思議なんだけれど、必ず何かしら救いの言葉が見つかる」という。今回のミサの第二朗読箇所「ヘブライ人への手紙」(12・5-7、11-13)がまさしくそうだった。
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また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
日本聖書協会『新共同訳聖書』
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不覚にも、ミサ中に泣いてしまう。不覚・・・そう、自分でも覚えていないうちにはらはらと涙を落としていたようで、隣の人にハンカチを差し出されて、初めて気づく。
今の自分を巡る様々な出来事も「試練」なのだろう。嬉しいことばかりでなく、試練もまた感謝できる人生でありたい。