クリスマスと山地民

今年もクリスマスを迎える。クリスチャンの自分としては、喜びを感じるのはもちろんなのだが、毎年少し哀しい気分になる。それが毎年のクリスマスの恒例行事となっていて、やはり今年も喜びと哀しみの入り交じった複雑な思いでクリスマスを迎えた。

タイの山地民にはキリスト教に改宗した人々が多い。小さな貧しい村にも小さな教会があり、人々は毎週のようにミサを献げている。タイの村々に入り始めた当初、山地民の美しい独自の宗教観に心打たれていた僕には、なぜ彼らが自らの宗教を捨て、キリスト教に改宗するのがわからなかった。特にクリスマスにキリスト教に改宗した山地民の村々で、盛大なお祝いが行われるのが僕には不思議だった。ただ、その後僕自身も改宗することになり、今ならその理由が少しはわかるようになった。

クリスマスは、言うまでもなくクリスチャンにとってはとても大切なイエス・キリストの生誕を祝う祝日である。イエスは、カトリック的に言えば三位一体であり、神でもある。そのためクリスマスは「イエスがこの世に現れた日」であると表現されることも多い。その誕生日が祝われることになるのは、ある種「あたりまえ」と思うかもしれないが、クリスチャンにとってクリスマスは「熱望された救い主」の誕生を祝う大切な日なのである。

イエスがこの世に現れた当時、当時ローマの圧制に虐げられて生活していたユダヤの人々は救い主を熱望していた。クリスチャン以外にはあまり知られていないが、聖書の大部分はユダヤの民衆の苦しみについての記述であり、イエスの誕生は、その中の一つのエピソードとして描かれているに過ぎない。
ユダヤの民は救い主を熱望していた。旧約聖書の時代から、長い苦しみの中にいた人々が暗闇の中に長い時代救いの光を求め続け、やっと登場した救いの光がイエスだった。しかもイエスの出自は、当時忌み嫌われた職業の大工の息子であり、当時も決して恵まれている言えない馬小屋という環境の中で産まれ、その誕生は貧しい羊飼いたちによって祝われる。また、その待ち望まれてやっと登場したヒーローは、人生の30年あまりの間に、ユダヤの人々を解放するような政治的なムーブメントを生み出すわけではなく、ゴルゴダへの丘を人々の侮蔑を受けながら、自分が載せられることになる十字架を背負って歩み、彼の死刑は粛々と執行される。
旧約聖書では、イエスについて以下のような記述で預言している。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
(イザヤ書53:3-4)

イエスは決して聖書の中では「神々しいもの」として描かれるわけではない。おそらくイエスは現代で言えば最も貧しい者の一人で、苦しみの中にいる人々に寄り添っている。冒頭のFritz Einchbergの版画(「炊き出しに並ぶキリスト」:Christ of the Breadline)は、その姿を最も的確に表していると思う。

そんな彼が産まれたことを祝う一年に一度クリスマスの日、そうしたイエスが生まれた意味をもう一度クリスチャンは思い返す。今年もまた、残念なことに多くの問題は累積したままで、多くの人々が苦しんでこのクリスマスを迎えている。山地民の現状は相変わらず酷い。日本や世界の状況もかつてのユダヤの民の苦難を連想させるほど酷い状態が続いている。今年もクリスマスがやってきて、素晴らしい一日が始まる。ただ、山地民の村々や発展途上国でクリスマスが盛大にお祝いされるのを見るとき、僕は少し哀しい気分にもなるのだった。この世界はまだまだ救いを必要としている。それは残念なことでもあり、そのことを一年に一度再確認するのが僕にとってのクリスマスの一日だったりする。