『この世界の片隅に』ですずさんを苦しめたものの正体

苦しい時・貧しいときの経験は、とかく明るく語られがちである。苦しい時代を終えた人々は、多少なりとも美談として苦しかった時代の話を再構築するのだろうと思う。ただその一方で、美談もまた話者の率直な感想なのだろうとも思う。実際にこの歳になるまでに、いろんな苦労をしたけれども、あれはあれで貧しいなりに、苦しいなりに楽しかったなぁ、と思わなくもない。まるで「塩大福のような思い出」とでもいうか、甘さのなかにちょっとしたしょっぱさが入り交じったような、そんな思い出が誰しもあるだろうと思う。

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昨日、こうの史代原作の『この世界の片隅に』を観た。この映画を観るためだけに、この短い帰国中に片道2時間かけて鹿児島まで観に行った。原作のほうはすでに発売当初に読んでおり、その時からすでに感銘をうけていた作品であった。そんなこともあって、「原作を読んだ時に感じた程度の感慨があるのだろう」とずいぶん気楽に映画館を訪れた。ところが映画化されて再度提示された『この世界の片隅に』の世界は、その想像をはるかに超えた強いメッセージ性を持っており、見終わった当初にその感想を上手く言語化できなかった。

物語はノンビリとした性格で描かれる主人公であるすずさん(声優のん)の視点から描かれる。その「のんびりとした日常」は、こうの史代が描く柔らかな線のキャラクターに加え、のんの柔らかく幼げな声もあって意外に楽しく、緩やかに戦時中の生活が描かれる。そこにはこれまで見聞してきた戦争映画や伝記に散々書かれていた戦時中の生活のひもじさ、苦しさが描かれておらず、「ひょっとすると、こんな生活であれば戦時中の生活はそんなに悪くないんじゃないか」と思わせるほどで、おそらく当方だけでなく、聴衆の多くはそこにある種の「違和感」を感じながら、物語は進行する。

この物語の悲劇の結末は、日本で教育をうけた人間であれば、また少なくともこの映画を観に映画館に足を運んだ人間は、みな知っている。昭和20年8月6日に広島に原爆が落とされ、8月15日に終戦を迎えクライマックスを迎えるのだ、と。この映画を観る全ての人が、俯瞰的にこれから主人公のすずさんを襲う悲劇を想定しながら映画を観る。これは言わば「神の視点」であり、私たちは彼女に起こる不幸を前もって知っている。

つまり我々聴衆は、すずさんを苦しめるものの「共犯者」として映画に向かうことになる。来たるべきすずさんの運命に対して、結論を知りながら私たちは無力であることを強いられる。これがもし、戦争の被害者を悲惨なものとして描く映画であれば、我々はその「悲惨なる状況を生み出した何か」に内心で怒り、悲しみ、それらの行為を生み出したものと対峙することはできるであろう。だが、私たちはすずさんののんびりとした戦時中の生活を俯瞰的に見ながら「戦時中の生活もそれほど悪くはない」というような感情を抱く。

それはある種の暴力であることに我々は気付かない。その瞬間、そういった生活を強いた側、言わば戦争をしかけ、集落内のとある家庭を父親と息子を戦地に万歳三唱で送り出し、幼なじみを戦地に送る側に無言のうちに荷担することになる。

本作品ではすずさん(に象徴される)のような無垢な人々が、戦争にノンビリと巻き込まれ、それでも彼女らしく健やかに過ごしているときには、その加害の様子は、せいぜいすずさんの頭部にできた小さなハゲのような形でしか現れない。私たちは「静かに」その加害者になっている。ヨブ記に登場する神と悪魔のやりとりのように、私たちはこれから主人公に起こる運命を知りながら、それを受動的に消費していく。

8月6日よりも先に、すずさんの心理描写のクライマックスはやってくる。ノンビリとした生活の象徴であった姪、そして姪と最後まで繋いでいた右手の損失である。戦時中を通しても変わらないと思っていたすずさんの生活スタイルは、劇的な変化をとげる。しかし、それは大きな哀しみによって表現されるものでしかない。

戦時中にのんびりした生活を送っていたすずさんは、玉音放送を聞いた瞬間に怒りのあまり取り乱す。哀しみよりも大きな怒りの感情が彼女の心を戦争が浸食していたことに、そして、我々はすずさんを苦しめる側に立っていることに気付かされる。

映画終了後の館内は静まりかえっていた。その異様さをその場で上手く説明できず、今朝に鳴り改めて言語化しようとして気付いたのだが、あれは自責の念に捕らわれた者の「無言にならざるえない」静けさではなかったのか。この雰囲気と似たような雰囲気の経験があったことを自宅に帰って思い出したが、水俣の資料館を訪れたときに感じた「自らもまた加害者であることを知った」静けさに近いと思った。

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私たちは自らに生じた辛い経験を、「あのときは・・・」と思いだし、語ることができる。でもそれは、その「辛い経験」を終えたから言える話であって、その辛い経験を今も現在進行形で送っている人々に俯瞰的な立場から言えることなど何もない。我々は、現在苦しんでいる人に対して非常に冷酷に客観的な意見を吐ける。貧困家庭・困窮老人・福島の復興・奨学金問題など、「昔は私もそうだった」「甘え」等と語ることはたやすい。でもそれは、すずさんの頭部にハゲを作らせ、8月15日に取り乱させたその加害者側に回ることと変わらない。スクリーンに登場したすずさんの生活の一つ一つを、優しい眼差しでみていた私たちは加害者の立場に近いと思う。

『シン・ゴジラ』も『君の名は』も素晴らしかったが、2016年の映画で最も心に残った作品だった。

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この映画の冒頭、幼いすずさんが広島に海苔を売りに行くシーンで、賛美歌「来たれ友よ」(O Come, All Ye Faithful)のメロディが流れる。マザーテレサが、死の家に集まる人の内にイエスを見たように、すずさんもまた受難をうけたイエスなのだろう。

プロテスタントの方が歌っているバージョンとは大幅に異なるが、『カトリック聖歌集』はでは次のように訳されている。

「来たれ友よ」

来たれ友よ すべての友
喜びつどえ ベトレヘムに
み使いの 王なるみ子を
来たれ拝まん 来たれ拝まん
来たれよ拝まん わが主を

み告げ受けて 羊かいは
群れ打ちおきて 道いそぐ
いざ我ら 共に馳せ行かん
来たれ拝まん 来たれ拝まん
来たれよ拝まん わが主を

父なる神 とわの栄え
うまやのみ子に かがやきぬ
うるわしき そのひとり子を
来たれ拝まん 来たれ拝まん
来たれよ拝まん わが主を

イエスの誕生に羊飼い達が集まったように、この映画に集まる人々が増えることを祈らずにはいられない。