My Dream of life is here to stay.

一週間に一度の大学。大学院のゼミにて、後輩の発表を聞く。ああ、と目からウロコの発表がいくつかあり、感心しながら聴く。研究する人間が集まる空間というのはやはり貴重なもので、こもって一人で論文を書いていると「口べた(論争下手)」になっていくのだが、少しづつはなせるようになってくる。

大学へ向かうバスの中では、相変わらず同乗する高校生がうるさい。あまりにもうるさいのでMP3プレイヤーのボリュームをあげて乗り過ごす。たまたまDream of Lifeというジャズボーカルのスタンダードナンバーの曲順。男に振られた女性の歌で、しっとりとしたナンバー。締めは「My Dream of life is here to stay.」(ここにいることが私の人生の夢)と歌い上げて終わる。

バスの車窓を流れる 殺風景な風景を眺めつつ音楽を聴きながら、はたと「ここにいること」が私の夢でありうるような生き方をしているだろうか、と思う。一カ所に踏ん張って、自分と向かい合うのはけっこうつらいもんだ。


時同じくして探偵さんのところでも、自殺した女性の肉声を流している。当該サイトの主張を読む限り「本人の意思をうけて流している」から問題ないということなのだが。率直に言えば不快この上ない。その不快感は結局青年の殺害ビデオを自らの正当化のために流すアルカイダと共通していると思う。アルカイダは自らの権利を認めさせるためにかの映像をネットに流し、探偵さんのところは死んだ少女の権利として音声ファイルを流す。

「死」は(ひいては「命」は)取り返しの着かない、絶対に侵害されてはならない権利の一つだった。だが、今回のネットで生じた一連の事件は、「死」(さえも?すらも?)が権利の「一つの材料」として相対化されてしまったことを明らかにした。

インターネットは、人間の営みのすべて、私たちの生活の営みのありとあらゆるもの(セックス、排出行為といった旧来オープンに知ることのなかったものがネット上で簡単に画像・動画を手に入れることができるようになって久しいのは知るとおりで)、を手に入れる(のぞき見る)ツールとして機能するようになった。

「軽率な行動をとった」青年の命が、政治的な取引の対象となり、彼の死そのものが「日本への脅し」という一つの価値としてがネットのコンテンツの一つへと相対化される現状もまた我々の生きる現代の病理の一つのように思える。

我々の死もまた、かの青年のように-もしくは、より悲惨な方法でー世界につながるのかもしれない。我々の死もなんらかの価値を持たされてしまうかもしれないが、それがネットでやりとりされる以上の価値をもはやもたないのであればこちらからごめん被りたい。むろん、我々にはそういう拒否することすらできない状況ではあるけれど。

My Dream of life is here to stay.
と歌った時代はもうこない。ここにいるあなたの生活のすべては、もう「ココ」だけに縛られることはないのだ。たとえ、世界のどこにいても。アフリカにいようが、アメリカにいようが、ヨーロッパにいようが、アジアににいようが。
再度彼の冥福を祈ります。

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