大きなタマネギの話

今年はチェンマイで自分の誕生日(5/20)を向かえた。

毎年自分の誕生日を向かえる度に、どちらかというと暗い気持ちになる。人生はしょんぼりと、早々に終わると思っていた自分には、長い44年間だった。そして誕生日の度に反省することもまた多い。

考えてみれば、僕の人生のターニングポイントは、チェンマイで迎えることが多かった。今の研究テーマに出会ったのも、かつて死にそうな思いになったのも、大きな喜びを得たのもチェンマイだった。そんなチェンマイで44歳になる。人生はつくづく不思議だ。かつて、チェンマイに住んでいた頃の駆け出しのフィールドワーカーだった自分から、今の自分がどう変わったのかというと、実際のところあまり変わっていないようにしか思えないけれども。

誕生日の前日、チェンマイ大学からの帰路目の前でバイクに乗った学生が交通事故で亡くなった。詳細は省くが、即死だった。偶然命を落とした学生ついて、他人が意味づけをするということは大変不遜であることは十分に頭で理解出来る。だが、意味づけができないことにこそ人は多く苦しむ。なぜ彼だったのか、なぜ僕の目前だったのか、なぜこのタイミングなのか。全ては偶然であり、それ以上のことはなかっただろうが、「意味のないことの重さ」を引き受けるのは実は相当に心に負担がかかる。

同じようにフィールドワークの最中に陰惨な話題を見聞する毎日は、僕自身が偶然「日本人であり、男性である」ことで、浴びせられる無言の圧力も結構大きい。話を聞いた後は、僕自身もダメージが大きくとても落ち込む。こういう役は引き受けたくはなかったと思う時も多い。「なぜこういう研究を続けているのか」ということもやはり偶然なのだろう。

何より、僕がインタビューする被害に逢っているインフォーマント達は、「普通」の女性だったり、子どもだったりする。話を聞けば聞くほど彼ら・彼女らが被害者になることに必然性はないのだとわかる。その村に生まれ、女性として生まれたことを誰も選択できない。

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タイと出会うことがなく人生を送ることができれば、もっと楽に生きられたのではないかと思う時がある。村の中の苦しいニュースを聞くことも、その加害者が自分の属性と同じ「日本人の男性」であることを聞くことも、日々新しい発見をし続けることが職務として続けなくてはならないこともなく生きることができれば、もう少し楽に生きることが出来たのではないかと時折思う。もちろん、一般企業に勤めることも僕にとっては同じように苦しかったのかもしれないが。

「神に捉えられた」という表現は、遠藤周作の『深い河』の主人公大津の言葉だ。信仰というのは自分で選択できるようなものではなく、「神を選ぶことができない」ことにその本質があるのだと思う。「神」という言葉に違和感があるなら、遠藤が特に「神」を主人公大津の言葉を通して「大きなタマネギのようなもの」と表現したもので構わない。そんな「大きなタマネギのようなもの」に捉えられてしまったのだと思う。そんな風に僕が生き方を選ばなくても、きっと大きなタマネギのようなものは僕の肩を掴み手放すことはなかったのだろうと思う。「大きなタマネギのようなもの」は、僕をタイに送り込み、多くの辛い話を聞いて回るような人生を僕に選択させた。そんな「大きなタマネギのようなもの」との偶然の出会いを必然のものと思い受け入れられる強さが僕にはまだない。

この一年僕には何ができるだろう。大きなタマネギのようなものは、僕を今年どう生かすのだろう。もし、まだ僕にやれることがあるのなら、来年も同じように反省できるよう、一年が過ぎていって欲しい、とそんなことを願いながら44回目の誕生日を迎える。

僕が「偶然」今でも研究を続けられていること、そんな僕を支えて下さっている皆様に感謝します。