タイの山地民と憲法と

当方の専門は法社会学で、端的に言えば「人々はどのようにルールを生み出し、使っているか」ということを研究テーマにしている。かれこれ10年ほどタイ北部チェンマイに住む山地民モン族の研究を続けているのだが、研究業界でも一般的に山地民の研究では、人類学者が中心になって調査を行うため、村の中で生活をしていると、研究者業界の知人からも「なぜ法律の先生が村の中に?」と言われることも多い。自分自身もまさかタイの山の中までやってくるとは思ってもいなかった。実際、13年前は村へのアクセスが非常に悪く、雨期に舗装されていないぬかるみの道で運転していた車が横転し、命を落としそうになったこともあった。右手の機能は大分失われてしまったけれども。それでも今でも村に通い続けているところをみると相当な物好きなんだろうと思う。

さて、当方の研究対象としているモン族は、現在の中国からラオスを経由してはるばるタイまでやってきた人々である。村の正月では餅をつき、またコマ回しも行われ、日本人のルーツとも言われる少数民族である。そんなモン族の村で生活を送りながら、村の伝統的な儀式について訪ね歩いたり、村人の話を聞いて回り、愚痴を聞いてまわっている。村人の口から出てくる言葉は、明るい話題の中に時折暗く、悲しい話題も多く含まれる。特に貧困、女性へのDV、子どもへの虐待の話は深刻だ。現在でも村の中では複婚や誘拐婚(13歳ぐらいの女性を自宅に連れてきて婚姻が成立する)が行われるほか、離婚の際に子どもの養育権だけでなく全ての財産を女性は放棄しなくてはいけないなど、モン族の持つ伝統的なルールに苦しめられていることが多い。

望まない結婚と望まない妊娠によって子育てのために小学校を中退する女の子の悔しさ、自分の子どもとも会えなくなり無一文で実家に返される女性の苦しみが想像できるだろうか。自分の娘が、姉妹が、母親がそうした状態になったとしたらどう感じるだろうか。こうした状態を目前にして、それでも「モン族のルールは尊重されなくてはならない」と言える人はいないだろう。

もちろん、モン族の伝統的な文化は大事にしなくてはならない。モン族の衣類、食について、または一部の婚姻関係について、モン族の持つルールについては敬意を払うべきである。だが、悲惨な現状を目の当たりにしたときに私たちは気付くはずだ。「どんな民族であっても、性別の違いがあっても、年齢に違いがあっても、守られなければならない民族独自のルールを超えた最低限の権利はあるはずだ」と。あなた自身やあなたの子どもにはレイプされない権利があり、あなた自身やあなたの子どもはDVをうけない権利があり、あなた自身とあなたのパートナーの子どもや二人で築いた財産は離婚したとしても簡単に奪われない権利がある。たとえその民族がどれだけ長期にわたって慣習法としてそのルールを村内で存続させていたとしても、どんな状態の人間であっても普通に有している諸権利があるはずだ、と。

こうした考えが「人権」の発想の原点にある。

自民党や日本青年会議所の憲法試案、それらまつわる様々な発言を読むと、日本には西洋的とは異なる「日本独自の権利認識」があるのだとするような主張が目に付く。そして、日本人のメンタリティと異なる西洋をルーツとする(もしくはアメリカに押し付けられたとする)「歪んだ権利」が日本人に押し付けられ、その結果、我々の日本人社会は歪んでしまったのだと。だがこうした「憲法が変わったせいで、こんなに日本のコミュニティは酷くなった」という議論には、なんの根拠もない。櫻井よしこがこの類の発言をする度に知識人から反論があるが(特に小林節先生が痛烈に批判している)、それらの指摘に対して櫻井からの再反論はなされていない。

自民党案では全てカットされているが、一般に「憲法の実質的最高法規要件」と呼ばれている日本国憲法第97条は、「人権」のルーツについて高らかにこう宣言する。

「第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

日本国憲法は、そのおおよその形はGHQが提示したものであり、押し付けられたモノだとする意見も安倍首相及び周辺の方々の間には根強いが、こういう意見には個人的にはまったく与しない。そんなものは日本国憲法第25条の制定過程をみればあきらかで、当時の貴族院議員が崇高な理想をもって積極的に日本国憲法を制定したことがよくわかる。25条のオリジナリティは日本が誇るべきものである。この憲法は「押し付けられた」とはとても呼べない当時の議員達の知の結晶である。日本国憲法の中心にあるものは、タイの山地民にも当然適用されるべきであるような「だれしもが人間として普通に有するべき人権のありかた」である。従って「アメリカが押し付けたから、日本国憲法はおかしい」という発想は、「ユークリッド原論などの数学の諸々の定理は、西洋からの押しつけだから、おかしい」という発想と同じで荒唐無稽である。憲法に書かれているのは、人類共通の普遍の真理なのだと日本国憲法は述べている。

モン族の子ども達、女性達への理不尽なモン族のルールにはおかしいと思えるようなメンタリティは持っていても、「日本人特有の人権」という概念のおかしさには気付かない人は多いようだ。日本人だけが持っている権利なんてどれだけあやふやか考えてみればいい。日本という社会は、もはや「日本人」という想像の産物にしかすぎないような人々だけのものではない。多くの民族、多様な性、多様な家族、多様なナショナリティ、もはや取り返しのつかないほど進んでしまった貧富の差で構成されている。日本を「日本人が有する日本の権利意識」としてまとめることのほうが無理がある。今TPPによって世界経済のグローバル化を進める政府が、その一方で憲法のグローバル化は認めない方針だというのは、これを二枚舌と言わずしてなんという。オマケに言うと、こうやって「日本」が語られるとき言葉の時には、『美しい』という妙な言葉で修飾されることが多い。自分と価値観の異なる人間を排除した、「純粋な日本人というものがある」と思っている日本人社会を美しいと思える発想は実に脆弱だ。「美しい日本」ではなく「脆弱な日本」の間違いではないのか。

僕自身は、実は改憲派で、憲法は変えるべき時がきて、しかるべき内容であれば変えてしかるべきだと思う。憲法改正というと、第9条のことが話題になるが(このことについては、僕には別個の意見があるが冗長になるので別項で)、自民党案も青年会議所案も第97条の削除に現れるような、人権無視の憲法を作ろうとしていることが何よりも問題であり、憲法案として議論するに値しない。

もう一つおまけで書くと、日本から遠く離れたタイの山の中だからこそ気付くことができることだってある。僕は大変非力な学者だけれども、こういうことを言い続ける人間を育てるためにも文系の基礎研究、特に人類学や基礎法学は必要なのだ。今の教育行政にはそういうところも抜けていると思われてならないけれど。