小さな道を間違えたけれども、大きな道は間違えていない

 

8日間のアメリカ滞在もとうとう最後の夜を迎えた。

ミネソタのモン族コミュニティを訪問した。モン族といってもピンと来ない方が多いと思うので少し説明を。ベトナム戦争を含むインドシナ戦争において、アメリカは大変苦戦していた。そこでCIAはラオスに住んでいた少数民族モン族をCIAの秘密工作部隊として利用する。だが、ベトナム戦争、インドシナ戦争においてアメリカは破れ、モン族はパテートラオの勝利によりラオスを追われ、アメリカに亡命せざる得なかった。無論全てのモン族ではなく、一部のモン族はCIAサイドに着かなかったので、戦後もラオス国内にとどまっている。だが、その後タイに亡命し、再びラオスに戻ったモン族、もとよりラオスに残ったモン族は、ラオス政府から冷遇されており公職に就くことができなかったりする。

亡命したモン族は当初アメリカの政策によって、アメリカ国内の複数の地域に分散して移住した。だがその後主にカリフォルニア州とミネソタ州に再移住するようになる。カリフォルニア州への移動については、複数の論文がすでに指摘しているとおり、農業生産が高いカリフォルニアでは単純労働者としての働き手を多く求めており、かつて戦前に日本からの移住者がサクラメントに日本人コミュニティを形成したようにモンもまたそうした労働者として必要とされたこと、農業中心の生活がモン族にとってラオスの生活に近かったこと、他の地域と異なりカリフォルニアの気候が温暖であったこともモン族がカリフォルニア州に再移住を行う理由となったと言われている。そうした再移住したモン族はカリフォルニアの場合はフレスノ市を中心に徐々に大きなコミュニティを形成していくようになる。

公共交通機関(トラム)のモン語表記

公共交通機関(トラム)のモン語表記

ミネソタ州では、特にセントポール市とミネアポリス市を中心にモン族の再移住が進んだ。この2都市はツインシティーズと呼ばれ、糸井重里のMother 3に登場する都市のモデルにもなっている。ミネソタ州は北欧からの移住者を中心にして作られた州で、気候的にはアラスカをのぞくとアメリカにおいて最も寒く、最低温度の記録を持っている。気候的には最もラオス出身のモン族の生活環境とは著しく異なるのだが、移民に対する政策がとても手厚いとう経緯もあり、他にもベトナム、エチオピアを含む複数の国々の難民がこの土地で生活をしている。2010年の調査では、州単位で言えばモン族の移住者はカリフォルニア州が全米一であるが、市レベルで言えばツインシティーズが最も多く、公共交通の表示にもモン語が表記されるなど行政が相当に配慮している様がみてとれる。

さて、ラオスにおいて、普通の暮らしをしていたモン族は、アメリカでは単純労働者として働かなくてはならなくなった。このとは大変なストレスを伴う。アメリカへの移住後、多くのモン族がサドンデス症候群で亡くなる。疫学調査の結果、特にモン族の中でも村落共同体の高い地位に就いていた男性を中心にこの症候群で亡くなったことが明らかになる。タイやラオスに残っているモン族の村を訪ねるとわかるが、本来のモン族の村々は伝統的村落の村長や呪術師、詩人などがおり、近代国家の政治システムが関与しなくとも、自治が十分に行われ、運営が可能な村落であった。想像してみるといい。今日本国内で会社員、教員、公務員などをしている日本人が、急遽他所の国でこれまでのキャリアをまったく顧みられることなく、単純労働者として働かざるえないとしたら。そうやって旧来の村落で社会的地位を持っていた人々が、急に放り出され、言語が通じなければ社会的ステータスも与えられないアメリカで強い精神的ストレスを抱えて死んでいった。彼らが再び「モンのコミュニティを作る」ために一箇所に集まろうとする動きはあまりにも自然すぎると僕には思える。例えどんなに寒い土地であったとしても、つらい労働であっても、「社会的に認められること」は大切なのだ。

余談だが、連日テレビで流れているシリア難民を単に経済的難民としかみない創造力の著しく欠如した「知識人」の発言を見聞する度にうんざりしている。それは、シリア難民といわず難民というのはモン族と同様の問題を抱えていて、彼らはヨーロッパに難民として流れ込むことは土地や財産を捨てて移動するだけでなく、彼ら自身が積み上げてきたキャリアを全て捨てて、移動せざる得ない状態にあるという言わば「人間の尊厳」の問題が絡んでいることを考慮していないことによる。

話が逸れた。モンの話に戻る。

そうやって再移住したモン族が多く住むミネソタ州ツインシティーズでは、モンのコミュニティは積極的に行動している。6年前にもあったモン族NPOによって運営されているアーカイブス(資料庫)は移動していたが元気に活動していたし、次世代にモンの文化を残そうとする熱い人々でやはり盛り上がっていた。このコミュニティで、資料収集と簡単な聞き取りを行うのが今回の旅行の最終目的だった。

その聞き取り相手の一人が、都城高専にかつて在籍していたA君だった。都城高専には、2005年〜2012年にかけて、毎年一人のモン族がやってきた。大変有りがたいことに「都城高専にはモン族のことを理解してくれる教員がいる(実際僕はモン族の名前ももらっている)」という話がモン族の間で流布し、それをうけて僕もかつてタイで受けた恩を返すべく、僕は彼らの兄であろうと努力してきた。信じられない話だが、ラオスで唯一の大学であるラオス国立大学の医学部に入ったモン族の学生が、日本語を勉強して高専に入ってくるのである。異口同音に彼らが言うのは、「どんなにラオス国内で学歴を重ねても、モン族(特に彼らの家族がもともと反共産党だったこともあり)は、公職に就けないので日本に来た」という学生ばかりだった。

A君もそうした留学生の一人であった。だが、ちょっとした間違いをしてしまってA君は高専を退学することになる。これまで都城高専にやってきたモン族の学生の中でも、父親が政治犯として投獄されるなど特に壮絶な人生を送っていたA君が退学するとき、担任でもなかった僕が福岡空港まで送ったことを思い出す。互いに泣いて別れを告げた。

その後A君はラオスに戻ったものの、前述したとおりラオスでの出世の道は絶たれていた。村で細々と畑仕事をしていたものの、一念発起してミネソタの知人を頼って渡米する。そして今は、結婚して子どもも生まれ、元気にミネソタで生活をしている。そのA君が僕にいったのがタイトルの「僕は、小さな道を間違えたけれども、大きな道は間違えていない」というセリフだった。

「人間は何度も間違いを犯す。僕も当時は大きな間違いをしてしまって、その時は間違いをしてしまった自分をとても責めたし、もちろんそれは責められるべき内容だった。でも、自分の人生は大きな流れでは何も間違えていない。むしろラオスにはあんなにモン族が沢山いるにも拘わらず偏狭の地に追いやられていることを考えると、道路標識一つにしてもモン語が表記してあるアメリカで生活できるほうが幸せだ。僕は今、都城での失敗を経てここで一人で生きてきたけれども、妻が出来て子どもも出来た。同じ失敗はくり返さない。今はセントポールの寿司屋で寿司を握っている一人の雇われ人にすぎないけれど、いつか時期がきたら、大学に入り直して経営学か哲学を学ぶ。僕はあのとき都城高専を退学して本当に幸せだと思う。今は新しい世界をちゃんと見つけることができた。」

こういう言葉をかつての教え子だったA君から聞き、とても動揺した。日本では(そして悲しいことに都城高専では)真逆で、小さな間違いばかりを針小棒大に取り上げ、大きな人生の流れ全てを否定するような生き方が主流のように思えたからだ。小手先で器用に生きる生き方、を教えるのが日本の教育のようにも思える。日本では長期的スパンで見たときの「その人が生きるべき道」をどのように見通すか、という視点が決定的に欠如している様に思う。舛添都知事の会見もネットで拝見したが、あれも典型的な小手先でのやりとりのようにしか見えないし、(こういっては悪いが)高学歴の方ほどああいうタイプが多いように思う。もちろんこの発言が天に唾するものであることを踏まえつつ。

学生の指導に必要なのは、その場その場を上手くやりすごすテクニックではないし、親もまたそれを望むべきではない。20年経った後の彼・彼女の「善き」生き方であると思う。それをA君はちゃんと理解して日本を離れていった。

同様のことは他の事例でも言える。家庭内でのDVに苦しむ人に必要なのは、その場しのぎの言葉ではなく、強制的にでも家庭から離すことや精神科や心療内科、カウンセリング機関などの、精神・心理の専門家のいる機関でのケアである。舛添都知事のようにああいった政治資金の使い方をくり返す政治家に必要なのは本当は同様の治療だとも思う。家庭内の問題に目をつぶって会社第一で働く男性に必要なのは、20年後の30年後の定年後も含めた人生の送り方であろう。

フィールドワークではいつもいつも大きな恵みをもらう。今回のフィールドワークでは、他にもいろいろと得たことはあったが、一旦これで書きかけのフィールドノートを閉じることにしよう。

明日は日本への帰路に就く。

関連記事

Latest Article

  1. 2018.05.20

    終の棲家
PAGE TOP