20年目のトロンボーン 障害者としての20年
目が覚めて眠れなくなり、この数日考えていたことなど。
トロンボーンを再び演奏するようになって20年が過ぎようとしている。
20年前の5/6にフィールドワーク先のチェンマイで自家用車が横転し右手と左足を損傷した。あと半回転していれば谷底に落ちていた。横転した瞬間は覚えているが、その後は気づくと病院のベッドの上だった。
それまでも順風満帆という言葉とはほど遠い人生だったが、それにも増して人生がハードモードになった。今でも事故のシーンと帰国後のリハビリの日々を夢で見て、夜中に汗びっしょりになって飛び起きることがある。しかるべき心理的なケアを受けていればまた違ったのだろうが、嫌な思い出というのは悪い意味で色あせることがない。本当に残念だけれど。
障害者手帳が交付され、リハビリの後に川崎チネチッタで多くの映画を半額で観た。素晴らしい映画を観るたびに、あの幸せな主人公達はエンドロールの後どうなったのだろう、と苦々しく思っていたのを思い出す。
そのときよく映画に付き合ってくれた友人は故人となってしまった。
当時は生活のためにバイトを4つ掛け持ちしていた。目的もなく生きるためにやらざるえなかったバイトは本当にきつかった。ただし家庭教師だけはやりがいがあり、もう少し「人に教える仕事」をやりたいとは願っていた。でも当時はチョークを握る力もほぼなかったため、その道はないなぁ、と思っていた。
そんな不毛の日々にも終わりが来る。現実逃避のために時々通っていたパチンコも実は右手が使えないと楽しめないことがわかる。そうか、もう僕はパチンコもできないんかぁ、と思うと自分が障害者であることを受け入れざるをえなかった。慶應の博士課程中退を決意し、30歳を過ぎて一般企業への就職活動を開始した。
ありがたいことに「障害者採用枠」という制度で1月にとある企業への入社が決まった。不思議な感覚なんだけれど、障害者で採用される際に「一見普通に見えるけれど障害者」というのは、とても評価が高いらしい。普通であるように見える障害者、という不思議な枠での採用に戸惑った。
そのときなぜだか急に学生時代に吹いていたトロンボーンを再び吹こうと思い立った。トランペットなどのピストンは簡単に押せないけれども、トロンボーンのスライドなら動かせるレベルまでは右腕が回復したのがきっかけだった。新大久保の楽器屋で友人に付き添ってもらい購入する。
自分が回復している象徴がトロンボーンだったような気がする。久しぶりのトロンボーンは何より安いアパートでは練習する環境もなく、河原で練習していた。少しずつ音階が出せるようになって、簡単なメロディーも吹けるようになった。
するとそれから僕の人生が好転しはじめる。2月末に前任校に就職が決まったのだった。履歴書を送ったことも忘れていて、本当に驚いた。
それから前任校で吹奏楽部の顧問となり、僕の人生にトロンボーンがいつも傍らにあるようになった。キーの多い木管楽器やピアノは演奏できなくなったけれども(もともとピアノはそんなに得意じゃなかったが)、トロンボーンだけでも演奏できる楽器があることは幸せなことだと思った。20年たっても技術が上がっている気がしないが、トロンボーンのおかげで不幸にはならなかった(幸せになったかというと、、、様々な沼にはまってしまったため・・・いや、やめておく)。トロンボーンはシンプルな作りながらとても奥の深い楽器で、改めて一つエチュードをクリアするたびに自分の幸福度が上がっていったように思う。学位もトロンボーンのおかげでとれたようなもので、都城でも、二度目のタイ滞在でも、そして今度やってきた富山でも人とつなげてくれたツールだった。
さて、実はこのタイミングでこの5月にタイで開催される国際学会のついでにお世話になったNGOにも向かうことになった。詳細については諸事情で書けないのだが、トロンボーンをタイで演奏することになり、そのついでにNGOでも演奏することになった。不思議な縁が人と僕をつないでくれる。50年生きていて、なおも苦しい時は多いのだが、20年トロンボーンを吹き続けられたことを少し肯定的に捉えたいと思った。今抱えている研究も一段落しそうだし、死ぬまでに一度ジャイアン風に言えば「リサイタル」を開催することを次の目標にしたい。
この不自由な右手との21年目がまもなく始まる。トロンボーンとの20年目も。
主の平和。