ぼくの好きなおじさん
鹿児島大学教養部が廃止になって25年が経つという。あの不思議な空間が閉じてしまってもう25年が経つのかと思うと非常に切なく、心苦しいものがある。
団塊ジュニアの自分の世代は「大学に入学する」ということが「当たり前」だった。当時は多くの大学の創立ラッシュで、そこそこの公立高校に通っていれば大学進学で苦しむ事はなかった。ただ、僕の場合はその当たり前のレールから外れ、家庭の事情で高校卒業後に東京に就職した。多く設立された「大学」は当時「大学のレジャーランド化」という心ない言葉で表現され、進学したくても進学できない人間に世間はとても冷たかったと思う。バブルが弾けたとはいえ華やかな東京で生活を送るのは辛かった。6畳2人住まいの社宅で寝泊まりしていた僕は、大学に進学できなかったコンプレックスをなんとかしたいと、高田馬場にある英語特化型の予備校に通っていた。この予備校で教鞭をとっていたのが被差別部落やハンセン氏病研究の第一人者のF先生だった。当時タコ部屋の同室だった同僚からRCサクセションの「僕の好きな先生」から教えてもらったのだが、まさにこんな感じのおじさんだったと思う。
たばこを吸いながら劣等生のこのぼくに
すてきな話しをしてくれたちっとも先生らしくない
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
詰め込み型の教育に慣れていた自分にF先生の授業は大変魅力的で、「いい年こいたおじさんがうれしそうに自分の研究をお話になる」そんな予備校の授業が許された最後の時代だったのではないか。こんなおじさんが人生の全てを投げ出して打ち込む「研究」が羨ましく「僕も大学に行かなきゃ」と大学に行こうというつもりになった。本命の大学は不合格で不本意ではあったけれど、就職して1年後、授業料免除と日本育英会、そして実家から通えるという条件が揃っていたため、法文学部法学科に僕は進学することができた。そして入学後に教養部と関わることになる。
教養部については今でも感謝していることが二つある。それは教養ゼミとフランス語だ。当時の教養部には教養ゼミがあった。わずか1単位の教養ゼミで単位取得の面からみると非常に非効率なゼミだったが、大講義室の授業ではなく、先生方と対面で授業できるのが魅力だった。
初めて訪れた政治学の教員の研究室の書棚にはF先生の『水平運動の社会思想史的研究』があり、嬉しくてずうずうしくも居座って3時間ほど話をしたと思う。そして、入学早々「大学を辞めたい」と相談した僕に「まぁ、もう少し落ち着いて鹿児島大学でできることを考えてみなさい」とインスタントコーヒーを入れて下さって話してくれた。結果鹿児島大学を卒業し、その後研究業界に骨を埋めることになった。人生の要所要所で助言を今もいただいていて、人生は本当に不思議なもので、その後30年近く経った今は同じ研究者として一緒に仕事をさせてもらっている。
また、当時の法文学部は履修届提出時に第一外国語を選択するシステムになっていた。コクトォの詩に惚れ込んでいた僕はフランス語を迷わずに選択したが、そんな希有な選択をしたのは450名中わずか3人。初めての授業で出会ったフランス語の先生は、とても怖く第一外国語にフランス語を選んだことを後悔した。しかしその先生がヴァレリーの研究をされていると知り恐々と研究室を訪ね「先生のされている紀要を下さい」とお願いをしたところ、「紀要をもらいにくるそんな奇特な学生は赴任して初めてだ」と3時間ほどお話をしていただいた。ヴァレリーだけでなく、大好きだったソシュールの言語学についても丸山圭三郎先生譲りのお話をたくさん教えていただき、先生のご指導もあって翌年の夏には、某団体の論文コンクールにパスしてフランス留学を実現させた。チーズもワインも先生から教わった。
30年近く前、確かに鹿児島大学には「教養部」があり、「ちっとも先生らしくない」おじさんがたくさんいた空間があった。今思うと僕もまたあの教養部の雰囲気を知り「ちっとも先生らしくない先生」として生きていこうと決心するきっかけが与えられた空間だった。幸いにも今、僕は教養部のようなポジションに席を置いている。残念ながら運営上の様々な削減がかかっていることから、かつての鹿児島大学教養部のような牧歌的な風景はない。しかし、接する学生達にとって、かつての教養部にたくさんいた「ぼくの好きなおじさん」の一人になれたらと思う。そして鹿大教養部はなくなったが、そんな「ちっとも先生らしくない」おじさんたち(もちろん女性研究者も含む)の集まる空間が鹿児島大学のなかにも残っていてほしいと願わずにはいられない。
(鹿児島大学教養部廃止25周年目の文集に寄せて)