大分でのK先生のこと
K先生と初めてお会いしたのは、大分で開催された九州平和学会でのことだった。当時鹿児島大学に社会人経験を経て入学した僕は、貪るように本を読み、知の世界に耽溺していった。1年生の頃からH先生と「別の」K先生の研究室を往復し、手当たり次第にガクモンの世界に触れていた。家庭の事情で一度諦めていたガクモンの世界に入ることができた僕は、特に理論的なテーマに憧れていたのだった。そんな両先生から、ある日「吉井君には、ハングリーさが足りない。理論畑の人間が理論を机上のみで生み出したと思ったら大きな間違いだ」という趣旨のことを言われる。そしてさらに次の言葉が重ねられる。「K先生のようなハングリーさが吉井君には不足している」と。鹿児島大学に入学し、できるかぎりのゼミに潜り込んでいた僕ではあったが、K先生という名前など聞いたこともなかった。それもそのはずで、その肝心のK先生なる人物は国内留学制度を利用して他大学に行っているというのだ。
1992年のとある学会が大分で開催されることになり、そのお知らせをH先生から聞いた僕は「K先生も参加されるので、話は通しておく」と言われてその学会に参加する。本来ならば大学院生以上を対象とした集会だったのだが、H先生が手配をしてくれて僕も参加できるようになったのだ。当時お金のなかった僕は、ヒッチハイクで大分までたどり着き、学会の会場でK先生とファーストコンタクトをとる。
そのときの対応は今でも変わらない。小さな目に不相応の大きな眼鏡で、その大きな体からさらに大きな手を広げてにこやかに「おお、おんしが吉井か。H先生からよく聞いとるぞ」と声をかけてくれた。その後、このK先生なる陽気な人物が、筆舌に尽くしがたいほどの苦労をして勉学を修めたのだと知る。僕はその話をその会場で聞き、自分の至らなさを泣いた。「俺のほうがより不幸だった」という不幸自慢ではなく、K先生なる人物は「わしもいろいろあったのよ」とさらりと言うのだった。K先生なる人物に、「この人の研究をもう少し聞いてみたい」という興味がわいたのだった。
一年後、鹿児島大学に戻ってきたK先生の2年生の後期から高学年のゼミにまぜてもらったのを覚えている。先生にも先輩にもたくさんかわいがってもらい、先生が読み終えた本もたくさんいただいた。たくさん笑い、たくさん喧嘩もした。
今から思えば、よくこんな学生にも匙を投げずかわいがってくれたと思う。K先生のゼミでは「おんしのすきにやればよか」と、放置されていた僕は、正規のゼミ生でないにも係わらず本当に好き放題させてもらった。教員になった今ならよくわかるが、きっと学生時代にK先生が一番やってもらいたかったことを僕にぶつけてくれていたのだと思う。
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K先生御用達の喫茶店『地中海』でのことだったと思う。「おんしが何をやりたいかわからん。ただわしのところではないわ。K(別のK先生)のところが肌にあってそうやのぅ。」と野に放たれたのも、今は良い思い出で、ありがたいことに、大学卒業後に大学院への進学が決まり、なぜか今はこうして学者のはしくれになっている。さらに人生は本当にわからないもので、現在は大分の大学に定期的に教えに行っている。かつて自分がヒッチハイクで向かった道を、まがいなりにも自分で購入することができた車で向かっている。
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K先生が退官されるという話題をゼミのまとめ役だったW君から聞いた。自分も4度目の年男を迎えたが、「そんな日」はこないと思っていた。あの大きな体と大きな手で「おんしゃー」と呼ぶK先生に鹿児島大学でお会いすることはなくなるのだと思うと少し寂しくはある。しかし、K先生が鹿児島大学から退官するというのは、世の中の人々に言わせれば、キングギドラのような化け物が野に放たれたようなものだし、きっと多くのヨシイセンシュウのような迷える人々に「わっしゃっしゃ」と大きな笑い声で元気づけるのだろう。鹿児島大学ではお会いできないが、「先生」を辞めたあとのK先生には、きっと意外な場所で会えると思うと、それはそれで楽しみである。
K先生、ありがとうございました。
(K先生の退職記念文集からの転載)