語られるべきことが語られないことについて

フレデリック・マルテル(吉田晴美訳)(2020)『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』河出書房新社をやっと読み終える。

自分はカトリックの信仰を持っていることを隠していないが、数年に一度主として信仰上の理由から「向かい合わなくてはならない」書籍がでてくる。この『ソドム』はそうした書籍の一つで、帯に書いてあるあおりが全てを物語っている。

「カトリック総本山バチカンの高位聖職者の大半は同性愛者だ。彼らは禁じられた特殊なゲイであり、性的倒錯者であり、性的虐待さえ行う偽善者だ。」

このあおり文だけ読めば、この書籍がゴシップをとりあげた唾棄すべき類の書籍のようにも見える。

近年の幼児虐待や年少者への性的虐待が問題になっているカトリック教会にとって、これほど衝撃的な本はない。僕自身、この本を読み終えるのに頁数の多さもだが、気が乗らず読み終えるのにかなりな時間を費やすことになった。頁の多くは、バチカンの聖職者に同性愛者が多いということが記されており、しかも、多くの登場人物はほぼ特定される形で書かれている。カトリックのコミュニティでは唾棄される(べき)書籍として、扱われることだろう。

しかし、今のところカトリック教会はこの書籍に対してなんのコメントも出していない。映画『ダ・ヴィンチコード』で、マグダラのマリアがイエスの妻であるという描き方がされたときに公式に反論を行ったが、今回はなんのコメントもない。それもそのはずで、著者のフレデリック・マルテルは社会学博士で、書籍の記述は学問的な手法をベースにしており、一つ一つエビデンスをつけながら書き上げられている。この記述をひっくり返すことは相当に難しく、バチカンも反論しようがないように思う。

指摘する問題点は非常にシンプルだ。司祭の同性愛・小児愛好、そしてこれらのことが秘密になっているということ。バチカンの内部で処理されているこれらのトピックは、ずっと人目につかない状態になっており、そのこと自体を著者は批判する。

個人的な見解としては、同性愛という個人の性的指向に関しては第三者がとやかくいうことではない。しかし、司祭の同性愛者が多いにも関わらず、その存在をひたすら隠さざる得ない状態になっているのであれば、司祭の扱いを変えるべきだと思う。司祭の結婚問題も散々いわれていることであり、教会のしくみを変えることで新しい世界が見えることもあるだろうと思う。

一信徒として思うのは、司祭を信頼するのは、彼が童貞であるからでも、未婚者であるからでも、異性愛者だからでもない。結婚をしていても、同性愛者であっても、司祭への尊敬は変わらない。

さらに問題なのは、クローズな関係で行われる性的関係は被害者の声を封じ込めてしまうという点だ。性的被害者はその声を上げにくく、特にそれが教会コミュニティであればより深刻な話題として立ち上がってくるだろう。日本でも最近になって司祭による性的被害をうけた方々による訴えが出てきており、私たちの教会はこんなにも「歪んで」いることを示すものだ。というよりも、私たちが人間でいる以上「完璧な」社会共同体など存在しない。

日本でも長崎教区で神父が献金を横領していたことが発覚したが、私たちは神ではない+からこそ、こういった歪みがコミュニティ内部ででてきたのであれば、これを機会に正すことが肝要であり、決して無視して良い話題ではない。何よりもカトリック教会の中でこの書籍について語られないというのは大変まずいことのように思う。

主の平和。