戦後70年目にして

終戦から60周年となった2005年に僕は高専の教員になった。その前年である2004年にタイから帰国したばかりだった僕は、何も先が見えないまま帰国した。博士課程の大学院生というのは(今のほうがもっと酷い状況になっているが)そういう「先の見えない」ポジションだった。曲がりなりにもタイで奨学金で生活が出来ていたのは、僕が独身でタイ語もそれなりに使え、何よりも円高に多く助けられていたからだった。月に6万円ぐらいあれば、十分に生活ができたそんな時代だった。

戦後60年の折、僕はこんな文章を書いていた。10年前には山地民のこれからと自分のこれからをこんな心持ちで捉えていたのだと、自分で読みながらあの当時感じていた不安が文章の端々から伝わってくる。

そして今年、バンコクで終戦70周年目を迎える。今回の滞在を機会に再び向かい合うことになったバンコクの邦人社会をまとめる過程で、日本が多くの「日本社会に不必要な人間」を海外にはじき出したのだなぁ、と思うことが多くあった。10年前と異なり、今年このタイの中で最も救われなくてはならないのはそうした一部の邦人であるような気さえしている。

無論、10年前と変わらず、バンコクの海外拠点となっている日系企業では「いらないもの」として、地中深くに放射性物質を埋めるようにタイの人々を足蹴にしているのだなぁ、と思う事例にも何度かタイで直面してしまい、これもまた悲しい話題だった。これも諸事情で具体的な地名や会社名は書けないけれど。

ただ、何よりも「現在の年金では日本で暮らすことができない」という理由で日本を離れてくる老人へのインタビューをしながら、その根幹にあるのが「年金」というお金の問題ではないことに気付いて愕然とした。実際にバンコクにやってきてみるとわかるが、タイはもはや年金の不足分を補えるほどの物価水準ではない。日本と同様、あるいはそれ以上の物価水準である。お一人お一人のインタビューを通して知ったのは、タイにやってきたお年寄り(そして若者も)、日本社会の生きにくさに絶えかねて、リセットボタンを押すような感覚でこの土地に来ている人も多いんだろうな、と思うことのほうが多い。

「日本に未練はない」とおっしゃる方々に会う度に、そのインタビューをする度にこちらが凹むことの方が多い。そうした方々は邪気がある方ではなく、むしろ海外に渡ってくる程度には、行動力があり、日本の「怖い」社会に適応できない心優しいナイーブな方ばかりであることがかえってインタビュアーである自分を傷つける。

そうした人々の行動を、「逃げ」と呼ぶ方々がいることを知ってもいる。だが、押せるリセットボタンやポーズボタンがあるなら何度でも押してしまえばよいのに、と思う。問題は日本社会がそういうリセットボタンやポーズボタンを押してしまった人に対してとても冷たいことで、心優しい人達がまた戻れない社会になってしまったことがこの70年の成果なのだとしたら私たちはなんと誤った国作りをしてしまったのだと思う。

だが、たぶんそのリセットボタンやポーズボタンを押した人々が、戻っていくところは「日本という[怖い]コミュニティ」ではなく、「タイもしくは日本の中にもかろうじて残っている人間らしさに溢れたコミュニティ」なんだろうと思う。これはタイのコミュニティを美化しているのではない。むしろタイのコミュニティや日本の田舎の泥臭いコミュニティのほうが十分に[怖い]ぐらいだと思うのだが、日本のそれとタイのそれは質が違うような気がする。日本のコミュニティの怖さは「コミュニティに参加しない人々、共同体に参加しない人々をなかったかのようにして扱う」ことの怖さで、タイや日本の地方のコミュニティの怖さは、「コミュニティに参加することで、当然の軋轢として生じる人と人とのトラブルに関する」怖さのような気がする。ゲームに参加させてもらえない日本(都市部)の怖さと、ゲームに参加させて貰った上で徹底して叩かれるタイと日本の地方の怖さというような違いとしてまとめられるだろうか。

タイで戦後70年の今日の日を迎えることは感慨深い。僕自身もこの世に生をうけて40年を超え、この戦後の日本という国を作ってしまった責任の一端が僕にもある。エライ学者ではないけれど、政治家でもないけれど、「日本に住みたい。この土地に住みたい。」というコミュニティを地域に形成することの難しさから逃げていなかったか、と自省することも多い。

タイにいるからこそ70年の節目の今日、日本がとても恋しい。もっと「ああしておけば良かった、こうしておけば良かった」というような自責の念とワンセットになった恋しさだ。まなび長屋ももっともっとできることがあるはずだったし、自由演奏会もあの地域で開くべきだったし、地域への貢献ももっともっと出来るはずだったし、勤務校でももっとできることがあったし、研究でももっとできることがあった。憲法についても、原発についてももっともっと語るべきだった。

バンコクでの戦後70年目を迎え、そんなことを感じた。

追記:告白しますと、この文章は、かつてタイで同じ時代を過ごしたとても魅力的な友人で、現在は日本の地方のコミュニティに飛び込んで奮闘しているOさんの活動に触発されて書きました。自分がOさんのように生きれていないことを反省しつつ。