「ひょっとしたら」と思うこと
「こうていえき」と入力し、変換キーを押すと「口蹄疫」と一発で変換できるようになった。当たり前と言えば当たり前なのだが、ATOKなどは「こうて」まで入力すると「口蹄疫」という言葉をAI変換してくれる。
この数週間ほど口蹄疫に関する文章をいくつもオフラインで書かされてきたその学習効果だろう。
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・口蹄疫のため、○○が中止になりました。
・口蹄疫予防のため消毒マットを設置しました。学生諸君は・・・云々。
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この「口蹄疫」という文字を見る度に感じるこの空虚な感覚をどう説明して良いかわからない。苦しんでいる人がいるのだけれど、何もできないというこの思い。今回の感染地域から届く情報はどれも悲しみに充ち満ちたもので、農家の方々の悲しみを耳にする度に心が重くなる。育ててきた牛や豚を単に屠殺するという悲しみは、どれだけ大きな心理的なストレスとして農家の心に重くのしかかっているだろう。
モンの村で生活を送っていたとき、一匹の豚のために祈りをささげ、全ての部位を食べ尽くし使い尽くす。そこにはいのちへの畏敬があったと思う。だが、「1週間に5万頭を処分する」と、たんなる目標設定となった命のことを思うと、それがたとえ家畜であるとしても(いや、むしろ我々人間のいいように命をもてあそばされる運命にある家畜だからこそ)胸が痛む。
現在宮崎市内の大学に週に一度の割合で非常勤に出かけるのだが、国道に設置された消毒液散布チェックポイントや消毒マットを通る度にこの口蹄疫に関する話題は、単にそれが我々の「食の安全」に関する話題だけを引き起こしているのではない事を思う。少なくとも宮崎においては、私たちの社会が「どれだけ他人に対して優しくなれるか」ということを突きつけている。
「ひょっとしたら」自分がウイルスを運んでいるかもしれない、と思いを巡らせ、そのわずかな「ひょっとして」の可能性によって被害を受ける人々を想像し、「ひょっとして」の可能性を完全に消すために自家用車に消毒液を散布することを認め、消毒マットを踏む。「ひょっとして」と自分ではない「誰か」のために思いをめぐらすこと、それは畜産業者であったり、それと関連する産業であったり、出荷で食べているJAの方々であったり、口蹄疫を食い止めようと24時間体制で対応している県の方々であったり、自分の父親・母親と同じ年代の被害者の方々がテレビで流れる度に「ひょっとしたら」という思いが起こる。
そして同時にこういった「ひょっとしたら」という思いを「やさしさ」というようなあやふやな言葉で名付けて我々は理解してはいけない。「宮崎県民は優しい」という文言が成立するときこの件に関して「やさしくない」対応をした人々が、この事件が発生する前の自分と同根であり、口蹄疫に関する対応を「県民総力戦」(by東国原)などという戦前のフレーズをもじって参加することを呼びかける不快な知事と同根の対応をしていることもまた理解するべきだろう。
口蹄疫のマットを踏むその足が沖縄の辺野古につながらないとしたら、風評被害を打ち消そうと言葉を発するその口で特定の国家を一方的に断罪するような状況が生じるとしたら、亡くなった牛や豚の命は少しも浮かばれないように思える。