『彼は醜く威厳もなく』

2月です。

九州はすっかり暖かくなりました。明日からはまた寒くなるそうですが、それでもしばし暖かい空気の中で生活できることは、すくなくとも僕の右手にとってはいいようで、今日は痛みも消えて楽にしています。

新しく導入したサーバーラックのおかげで、研究室では常時5台のコンピュータがうなり声をあげています。やっとそれぞれのマシンに必要なソフトのインストールが終わり、本格的な運用に入りました。
VNCなどもインストールして、恐るべき「世界のどこにいてもコンピュータがあれば、データにアクセスできる環境」が整いました。「本当にここは文系の研究室なのかっ」、と自分でつっこみを入れています。

が、その一方で、このシステムをくみ上げるまでに、午前様帰りの日々が続いています。この4日ほど、夜1時過ぎの帰宅です(T-T)。今日は早く帰ることができるでしょうか。

もちろんマシンのセッティングというのは、実はどうでもいい話題でほかにさまざまな要素も絡んでいて、今は書かなきゃいけない数本の原稿に追われています。

そのため有給を使って休みをもらう(しかも半日しかとれないという罠)しか休む方法がなく、相変わらず土日返上で走り回っていますが、「なんだかなぁ」です。本当に(T-T)。

こういう風に「仕事が増えてしまう」自分に「あかんなぁ」とダメだしする一方で、どうも「神様は僕に多くの仕事を与えたのだなぁ」と今は思えます。それぞれの人にそれぞれの人に見合った分だけの仕事の量を神様が与えたのだとしたら、僕の急がしさもひとつの恵みなのだと思うようになりました。

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「私はイエスにつかまったのです」

最近遠藤周作の『深い河』を改めて読み返したのですが、主人公の大津が述べる言葉にじんときました。これは、カトリック教会を追放され、ガンジス河で死体を運ぶ主人公が、それでもキリスト教を捨てることができない心境を説明した彼のぎりぎりの台詞です。「人を恨む」ことができたなら、いや、『「許せない自分」を許す』ことができたなら、どんなに心が落ち着くだろう、と日々をすごす僕もまた僕もイエスにつかまった一人なのかもしれません。

仕事は正直しんどいんですが(笑)、仕事が振られていること自体がまだええことなんでしょう。『彼は醜く威厳もなく』と名づけられたこの章を久しぶりに思い出し、また静かに学生と向かい合いたいと思います。

・・・もっとも、それでも休みはほしいです。デートぐらいしたいわい。