満月の夜

このところとても健康で、毎日毎日がとても調子が良い。韓国でのリフレッシュが効いているのはいうまでもないが、加えて食生活の変化が大きいだろうと思う。

現在は一日の三食をほぼ毎日家で食べている。今日などはひさしぶりにうどんを打ち、知り合いの先生からいただいたゴーヤのサラダなども一緒に作る。

満月のお月さんをおがみながら、お中元にいただいた純米酒で一献傾ける。

今日の月はとても綺麗で、熱帯夜の夜にしばらく美しい黄金の円が浮かんでいた。

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高校生の頃、「家庭」がごたごたしていて、一人だけ祖父母の家で生活していたことがあった。

自分にとっての「家庭」というものは、小さい頃から存在しなかった。父と母の仲は大変悪く、そのどちらも鬱憤を子どもへの暴力を通してはらしていた。大人と子どもの力の差は圧倒的で、腕力でかなわない僕は口だけは達者になった。今思えばこのあたりの経験が今の職業にもつながっているのだろうとも思う。それがまた殴られるきっかけになるにも関わらず、帰宅時間を遅くするために一冊でも多く本を読もうとずっと図書館に通っていた。

ちなみにオヤジやおふくろから殴られていたとき、姉だけがかばってくれたので、姉貴だけには僕は今でも頭が上がらない。だから僕には今のところ姉貴以外の「家族」がいない。

そんな僕にとって姉以外のはじめての「家族」が一時期同居した祖父母だった。

すでに祖父母とも他界してしまったのだが、その生活はとても質素だった。一言で言えば、ただただ貧しかった。

特にかわいがって貰ったのは尋常小学校出のじいさんだった。じいさんは聴覚に障害があり、障害者手帳を持っていた。鹿児島の人にしては珍しく、酒も飲まず、タバコも吸わず、畑での生活をずっと送っていた人だった。とても不器用な人で、しわの間にある細い目で、じっと僕をみてはにこにことしていた。

じいさんは毎日毎日畑と家を往復していた。正直なところ同居するまで、僕はこのじいさんのことを心のどこかで軽んじていたと思う。毎日毎日、単調な生活を繰り返す中で何が楽しいんだろうと思っていた。趣味なんてものはなく、一生を畑に費やすという生き方がとても退屈に思えた。

早朝から畑に出て、夜に畑から帰ってくる。時間の概念が朝・昼・夜しかない生活だ。ときおり縁側に座って月を眺めるのが好きなじいさんは、一日の終わりを縁側でのんびり月を見て過ごすこともまた多かった。

じいさんは、特定の宗教に入れあげることもなかった。でも、月を眺めながら自分の人生をゆっくり考えて、ゆっくり見つめ直す時間を持っていた。孫である僕は教会に通うことでしか自分の人生を巧く咀嚼できなかったけれど、じいさんは月を眺めてゆっくり自分の人生を咀嚼していたのだと思う。

じいさんはじいさんなりに考えることがあって、ずっと月を眺めていたんだろう、と今では思えるけれど、当時はまだその理由がわからなかった。

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そのじいさんが倒れた連絡をうけたのは留学しているときだった。

じいさんは畑の中でたおれていたのだという。発見されたときじいさんは、腰が動かなくなったまま満月を眺めていたのだという。おおよそ月など見えない病室に入院したじいさんが亡くなったのは、それから一年後の事だった。

その後僕にはいろんな人生の修羅場がやってきて、右手の機能を失い、手術に失敗し、今でも吐血がとまらなかったり、と、決していいことが続かなかった。だが、じいさんが愛でてやまなかった満月をこうして観るたびに、僕もまたじいさんがそうであったように、今までの暮らしを考え直すことができそうな気がしてならない。

じいさんは死んでしまった。よく誰かが亡くなったとき、「○○は心の中に生きている」なんて言葉を言う人がいるけれど、そういう言葉では伝えられない感情がじいさんに対してはある。ただただ生きていてほしかった。これからやっとじいさんに楽してあげられたのに。

ただそれだけだ。

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今日、ゆっくりと月を観る。あまりに美しい月は、つらいことを癒すだけでなく、悲しい記憶も思い出させる。

そして、つらいことがあったとき、今の自分みたいに酒を飲んだり、衝動買いをしたりすることもなく、ただただ空に浮かぶ満月を眺めることで、じいさんはまた新たなスタートを切ってきたのだろうと、月をみて思う。

世界のどこにいても、月が見えるだろう。そして、多くの苦しみもまた、月を見ることで新たなスタートを切ることができるだろう。

なぜだろう、今夜は満月を眺めながら、無性に泣きたくなって、この話を書きたくてしょうがなかった。特に何があったわけではないのに、こんなに平穏で楽しい生活なのに。