45歳の春なのだ

本日5月20日に45歳になる。
多くの人がそうであると思うのだが、こうやって歳を重ねる自分の姿というのは若いときは想像しにくい。45歳の自分が若いときには想像できなかった。何より自分がこんな年齢になるまで生きていると思えなかったので、不思議な感覚である。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
太宰治『葉』青空文庫

という太宰治のように自分が生きていくのに言い訳をしながら、歳を重ねていく感覚で、毎年のようにこの気持を更新してこの年齢になったような気がする。

幸いなことに45歳を迎える前に全ての借金(といっても学費だが)を返済し終え、やっとこれから終の棲家を探そうという気分にもなり、もう少し自分に優しく生きようと思えるようになった。好きな歌を歌い、好きな本を読み、好きなことを教えようと思えるようになった。無粋なことをいうと、自分の人生の中で「借金が全くない」という状態になったのは初めての経験で、これからやっと自分の好きなことのためだけに時間やお金を使えるのだと思うと、初めて自分のことを「よくやってきたなぁ」と褒めたい気分になった。

どうして自分がこんな長生きができたのかわらかない。30歳前に死ぬと思っていたので、本当に不思議だ。そして45歳まで、と決めていた自分の生き方のテーマがあったのだが、もうそれもおしまいで新しいステージに進まなくてはならないと思うようになった。妻と過ごせる時間もあと20年であるし、ゆっくりと妻との時間を大切に過ごそうと思う。ここまできたら65歳ぐらいまでは元気に過ごして、のこり20年しかない妻との時間を大切に過ごそうと思えるようにもなった。

これもまたこれまでの僕になかった発想なのだが、これからの20年を生きるために、体のケアも十分にしなきゃいかんなぁ、という気になった。

その手始めとして、昨年度までのタイでの研究生活を終えると同時に「あの」ライザップに通うことにした。そのきっかけは昨年10月にほぼ15年ぶりに僕の右手の執刀医とチェンマイで会い、右手の神経痛について診察をしてもらったこと。僕の右手は思ったより筋力の衰えが進んでおり、このままだと楽器も持てなくなるのも時間の問題だと告げられた。右手の事故以来、痛みもあって筋力維持のための努力を怠ってきたことが原因なのだろう。
当初僕はライザップについて、かつてのダイエット教室みたいなものをイメージしていたのだが、僕の周囲の知人二人がライザップに通いその効果を間近に見て少し考え方を改めた。知人の一人はテレビCMどおりにダイエットに成功し、もう一人は「体重は変わらないが、筋力がついた」状態になったのだった。「ダイエット教室」ではなく、「個別制プライベートジム」なんだということも理解出来た。これまでに都城のジムに通った経験や、タイでもこまめに走ったり筋トレを行っていた経験からすると、自己流には限界があることもわかっており、やはりコストはかかってもマンツーマンでマシーンの使い方を丁寧に教えてもらい筋肉の追い込み方や筋肉の調整の仕方を教わることが必要だと自分でも良く分かっていた。これが東京やバンコクなら、ライザップ以外の選択肢もあったのだろうが、ライザップ同様のプライベートジムは宮崎にないようで(または僕のネットワークでは見つけることができなかった)ために宮崎市内のライザップに通うことになった。

通い始めて、まだ1ヶ月のトレーニングの途中なのだが、結果からいうとこれが大正解で身体に関する全ての数値が改善されつつある。学生からは「担任業務はそんなに辛いんですか?」と心配されるほど急激に痩せ、全てのスーツのスラックスがぶかぶかになってしまった。お腹の肉が落ちるのと同時に筋肉がつきお腹の6パックもうっすらと見えてきて、そして障がいのある右手に筋肉がついて一回り近く太くなった。このままうまく続けられれば、もう少しトロンボーンを吹くことも続けられそうである。

ともあれ、僕はこうやってもう少しだけ、生きれそうな気がする。

45歳の中年まっさかりになって、少しは「生きてやるぞ」と振る舞えるようになれて、生きていくこともそんなに悪くないと思えるようになった。そんな45歳の春でした。