二度と帰れない無人島で聞く3枚のアルバム(まちおん連載16回目)

「二度と帰れない無人島で聞く3枚のアルバム」というお題。これまた、実によいお題。理由は後述するとして、ちょっと固めの話しに少しお付き合いいただきたい。

「無人島で人間は「社会的」生活をするかどうか」というのは、社会科学者にとって頻繁に取り上げられるテーマの一つだ。ダニエル・デフォーによる『ロビンソン・クルーソー』では、28年間無人島(とはいえ、同じ島内の別集落には別の住民が住んでいたのだが)に過ごして、「社会的」な生活を維持していた男の姿が描かれる。人間は他者の目がなくともたとえ自分以外の人間がいなくても「社会的に振る舞う存在」であるとされるその人間象は大塚久雄のように、たとえ無人島であったとしても社会を再生産するのが人間という動物だとして言及され、他にもそのように想定する研究者は多い。

そう考えてみると無人島に残されたとして、それでも「音楽を聴く」という文化的な行為をするのであれば、それは十二分すぎるほど「無人島に置かれても、たとえたった一人であっても社会を再生産するのが人間」という立場に立つことになる。

そうした前提を踏まえ、3枚のアルバムを選ぶとすれば一枚目は決まっている。
・ヨーヨーマのバッハ無伴奏チェロ組曲


(ヨーヨーマ自身の手でいくつものリリースが出されているので、どの版かはもう問わない)

無人島に流された自分は(なんでCDやら音楽プレイヤーを流す電力があるのか、とかそういう愚問は無視して)、言葉を必要とするかどうかはわからないが、音楽は必要とすると思う。無人島にいる苦しみや孤独感に耐えて生きようとする時、例えばロビンソン・クルーソーのように正確に記録を付けるのも一つの手だけれども、言葉や論理的世界を放棄したくなるのではないかと思う。ロビンソン・クルーソーは正確に自分が漂流してからの記録を残し、金曜日に出会った異民族の人間に「フライデー」と名付ける。そういう社会制度を無人島の中でも再現しようとする人間の姿も確かに人間の一つの側面であることは間違いないが、僕はどちらかというと、「元の世界に帰れない」と思った瞬間に自分がそういうきっちりした世界にいたこと(現在いること)を忘れたいのではないか、と思う。
しかし、これは矛盾した欲求だ。「人間界のあれこれを忘れたいと思う自分」と向かい合う「論理的な自分」は、実に論理的な存在であり、だからこそ必要なのは論理的でありながらも歌詞のない音楽であるような気がする。

そんなわけで、バッハの無伴奏チェロ組曲のCDを、できればヨーヨーマの演奏版を一枚持って一人で過ごしたい。ヨーヨーマの凄さは、バッハの凄さを現代に再現させたところだ。言葉で考えなくてはならない世界に生きている人間の僕が無人島で生きるとすれば、規則的なリズムの中にある無秩序性と規則性を、なにもない島の生活で体感することをヨーヨーマの奏でるバッハを通して体感することが必要になってくるのではないかと思う。

その上であと2枚選ぶとしたら、
ザ・ドリフターズ(2000)『ドリフだョ!全員集合(赤盤)』
ザ・ドリフターズ(2000)『ドリフだョ!全員集合(青盤)』
というところだろうか。


僕は加藤茶がリードボーカルを務めた時代の楽曲が大好きなのだが(上記アルバムでは特に「赤版」)、人間の酸いも甘いも、そして馬鹿馬鹿しさも歌えるのはコミックソングの特徴だと思う。人生の「酸いも甘いも」を歌える歌い手は多いのだが、馬鹿馬鹿しさも歌えるコミックソングの特徴だとも思う。これがドリフターズの先輩に当たるクレージーキャッツとなると、プレイヤーの演奏技術がすごすぎてジャズの美しさが全面にでてしまうため、「笑う」よりも先に「ほー」っとその演奏技術に感心してしまう。その意味では僕はドリフの持つ馬鹿馬鹿しさをとても評価したい(美化もしないが)。

そういえば、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタは皇子の時に「四苦八苦」に気づく。人は生まれ、老い、病を持ち、死を迎えるという4つの苦しみを避けては通れない(生老病死)。この四苦に加えて、更に4つ人間には愛別離苦(大好きな人であってもいつかは離れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(大嫌いな人でも出会ってしまう苦しみ)、求不得苦(求めるものが手に入らない苦しみ)、五蘊盛苦(自分の心・身体すら思い通りにならない苦しみ)の苦しみがついてまわるとする。
この四苦八苦の苦しみの3つ(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦)は無人島ではおそらく解消された世界だ。だが、四苦八苦の四苦(生老病死)と五蘊盛苦の苦しみは社会の存在とは関係なく、無人島であっても向かい合わなくてはならない。悟りに至れない愚鈍な僕は、笑い飛ばす以外に助かる途を持ないような気がする。

そしてそれは(今回のお題の良いところであると思うが)無人島だけについて回る問題ではない。僕らの生きる現代社会は、各人の関係性が薄くなっていて、実は無人島で生きていることとさほど変わらないのではないかと思う。一方的に他者を自分の持つ習慣に合わせて「フライデイ」と名付ける野蛮さは意味がない。それは、一方的に他者をラベリングする今の社会の風潮と変わらない。そんな無人島にもにた現代社会で生きる時に最も有用な手段は、「笑い飛ばす」したたかさだと思う。そして仮にそういう孤独に生きる同じ無人島内の住民に出会ったとしたら、人間の根幹的な部分で互いに生き残る道を探るしたたかさだとも思う。なにも「無人島」でなくとも、今の我々が生きる世界が、多くの人々にとって「無人島」のように人と人とのつながりが希薄で、「無人島」に持って行く三枚は現代社会で生きる三枚でもあるように思う。

ヨーヨーマの言葉のない演奏と、ドリフの無秩序で馬鹿馬鹿しい歌を、今の世の中をサバイバルするための道具として、この半ば無人島にも似た日本社会の中でずっと聴いていたい。

都城工業高等専門学校准教授(法学)

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