「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

9月10日から13日の沖縄訪問中に、僕が貧しかった時代(今も貧しいですが)の友人に会ってきました。実に15年ぶりです。
26年前、僕たちはどちらもお金がなく、風呂無し・トイレ共同の同じアパートに住んでいました。僕が2階、彼が1階。大家さんはとても優しい方で、時折差し入れをくださいました。当時からボロいアパートでしたが、そんなボロいアパートを頼りにしている学生がいることもよく分かってくださっていた優しい方でした。
友人は大学院生、僕は大学を出たばかりのフリーターでした。最小限のバイトで月に10万円ほどを稼ぎ、そのほかはずっと勉強をしていました。バブルは終わっていましたが、あんなにお金が回っていなかったのも不思議な話でした。むさぼるように本を読んでいました。
彼は考古学専攻で、僕は法社会学専攻。もう一人の文学専攻の友人を交えて酒を飲むこともありましたが、それぞれが自分の向かい合うべきテーマに、静かに向かい合って日々を過ごしていました。楽しい話もしましたし、真剣な話も随分しました。毎日が一生懸命で、楽しかった記憶があります。
それが今では、互いにそれぞれの土地で研究室を構える教授になっています。あのボロアパートから二人の大学教授が出たと知ったら、大家さんはどんなに喜んでくださっただろうかと二人で話しました。
貧しいながらもがむしゃらに勉強できた時代があったこと、そしてそれを支え合う友人がいたことは僕にとって本当にありがたいことでした。
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ネットミームとしてよく使われる
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
という一節があります。出典はもちろん中島敦の『山月記』です。このように袁傪に呼びかけられたとき、李徴はすでに虎になっており、人間に戻ることはできなくなっていました。
中島敦は、李徴が虎になった理由を、李徴自身に次のように語らせます。
「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。」
才能に溢れるがゆえに自負心が強く、官僚の仕事になじめず職を辞し、詩人として名を残そうとして挫折する。その姿は、当時の—場合によっては今も—大学院進学を考える若者の心をえぐった(えぐっている)と思います。残念ですが、氷河期世代である同年代の中には、高学歴であり、かつ優秀であることから生まれる自尊心と羞恥心のバランスを崩し、虎に変わってしまった友人もいました。とても美しい文章を書く友人も、とても優れた論評を書いていた友人も消えてしまいました。自分で僕自身がギリギリのところで虎にならずにすんだ(バランスを崩さずにすんだ)のは、この友人が声をかけ続けてくれたからだと思っています・・・いや、自覚症状がないだけで、とっくに虎になっているのかもしれませんが。
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今回の学会では、添付画像のタイトルで発表しました。タイトルを見て「何を言ってるんだお前は」と思われた方は、正常な感覚をお持ちです。
生成系AIはともすると使用者の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」をこじらせる存在になりかねないと思っています。
ただ、生成系AIがこれだけ幅を利かせる時代が来てしまった以上、
「生成系AIが壊してしまった価値観を取り戻すために、生成系AIのない(使わない、あるいは使用をセーブする)世界」をもう一度つくろうとするよりも、
「生成系AIを使い、その上でどうやって私たちは他者を理解できるようになるのか」を問うほうが誠実であるように思っています。
あのとき、友人に会えたことは本当に嬉しいことでした。同時に、苦しいながらも、全てとは言えないけれど「わかり合えた」というあの感覚を、今の学生たちはどうやって持つことができるのだろうかと考えます。
あのボロアパートの上下で励まし合ったように、互いに意見を戦わせたように—他者の視点を取り入れられるようなAIの使い方を、僕なりに教育現場で実現できたらと思っています。
主の平和。


