帰る家があるから、風来坊でいられる—『男はつらいよ』ロケ地マップ余話

『男はつらいよ』論になってしまいました・・・
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先のGooglemapの延長のお話です。
「旅ものの作品と言ったら『水戸黄門』『男はつらいよ』『釣りバカ日誌』じゃないか」
というご指摘をいただきました。
たしかにそのとおりで、さくっと作成したところ、『水戸黄門』は江戸時代の話で城址はみつかるものの位置を正確に特定できず、また『釣りバカ日誌』は、釣りのエリアが漠然としていてこれまた把握しにくくマッピング化が難しいことが判明。
なんとか『男はつらいよ』に関してはロケ地マップとしてなかなか上手くまとまりました。松竹のWebサイトでもある程度具体的な地名がまとめられていたことも助かりました。
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この記事の主目的からは少し外れますが、『男はつらいよ』を見ていると、映画の構造そのものに、戦後日本のジェンダー観の揺れのようなものを感じます。
第1作が公開されたのは1969年。渥美清主演のシリーズは第48作『寅次郎紅の花』が公開された1995年まで、実に26年間続きました。公式資料によれば全48作の延べ観客動員数は8,000万人以上。高度経済成長の末期からオイルショック、バブル経済、そしてその崩壊後まで、日本社会そのものが大きく変化した時代を横断した映画です。その意味で、寅さんという人物の描き方は、戦後日本の「男らしさ」をかなり奇妙なかたちで壊していく存在なんでしょう。
家を建てない。定職に就かない。出世しない。財産を蓄えない。妻子を養う「一家の主人」にならない。社会的地位・学歴もない。そして、何度恋をしても、最終的には結婚しない。
高度経済成長期の日本社会が男性に要求した「会社員になり、働き、稼ぎ、妻子を養い、家を持ち、一家の大黒柱になる」という成功モデルから、寅さんは見事なほど外れています。それどころか、失敗し、泣き、嫉妬し、勘違いし、傷つき、旅に出てしまう。いわゆる「強く、合理的で、経済的に成功した男」とはほとんど正反対です。(ちなみに僕もそういうタイプです<伏線)。
『男はつらいよ』には、旧来の「強くて立派な男性像」をいったん壊して、その代わりに「不器用で、弱くて、情に厚く、恋をしては傷つく男」という、別種の男性のロマンティシズムを作り直した側面があり、それが山田洋次の狙い所でもあったということでしょう。
ところが、ここがジェンダー的には非常に面白いところだと思うのですが、寅さんは「男は一家を養わなければならない」という男性側のジェンダー規範から徹底的に逃げることが許されているのですが、その寅さんがいつでも帰ってこられる柴又の家は、旧来の家制度を維持するために誰かがコストをはらって維持しているという矛盾があります。寅さんが家制度を無視した風来坊でいられるのは、「帰ることのできる家制度で守られた場所」があるから風来坊でいられるということです。
その中心にいるのが、妹のさくらでありその夫の浩であり、いつもぶつくさいいながらも「トラのやろう」と声をかけるおじちゃんやおばちゃんやタコ社長であり、そして各作品に登場する「虎さん」と声をかける女性たちです。
寅さんは自由に旅をし、突然帰ってきて騒動を起こし、また出ていく。しかし、帰れば食卓があり、寝る場所があり、自分のことを心配してくれる家族がいる。つまり、寅さんの「自由な男性性」は、家族を守り、世話をし、感情を受け止める人々の存在によって成立しているという少し皮肉な構造があります。
男性については「会社員でなくてもよい」「成功者でなくてもよい」「一家の大黒柱でなくてもよい」「弱くてもよい」と、かなり大胆に男性規範を解体しているのに、女性については、家庭を維持すること、男性を理解すること、男性の傷ついた感情を受け止めること、といった役割が残っていて、そのあたりにある戦後社会の「男女平等社会」という看板から外れた欺瞞性を感じます。
しかもシリーズを通して各作品のヒロインを一貫して「マドンナ」と分類しているほど、「寅さんが女性と出会い、恋をし、しかし結ばれない」という構造を繰り返します。そのマドンナ達も、吉永小百合、八千草薫、若尾文子、竹下景子、大原麗子、松坂慶子など、戦後日本を代表する美人女優たちが登場します。
登場するマドンナたちは、一人の独立した人生を持つ人物であると同時に、しばしば「寅さんが恋をすることによって、寅さんという男の優しさや哀しさを浮かび上がらせる存在(道具)」として「美人である」ことを前提に物語に配置されています。この点は、現在のジェンダー論から見ると、なんともいえないもどかしさを感じます。
とはいえ、それだけで『男はつらいよ』を古いジェンダー観の映画と断ずるつもりもありません。たとえば浅丘ルリ子演じるリリーは、複数回登場し、寅さんと同じように旅をし、自分で働き、家庭の外を生きる女性として描かれます。シリーズの中で彼女が寅さんの「最も対等な相手」に見えるのは偶然ではないでしょう。こうした演出が山田洋次の意図的なものかわかりませんが。
まぁいろいろ感じるのですが、古い性別役割分業をかなり引きずりながら、もう一方では、その中心にいる「男」のほうを先に崩し始めていることについては評価してよいように思います。
「男は強くなければならない」
「男は稼がなければならない」
「男は家族を養わなければならない」
「男は泣いてはいけない」
「男は社会的に成功しなければならない」
そういう戦後日本の男性規範から脱落した人物を、敗者として切り捨てるのではなく、「こんな男でも、人を愛することができるし、人から愛される」と、48作にもわたって肯定し続けたという点では、重要な作品群だったのではないかとも思います。ただ、その「男性を規範から解放する物語」を成立させるために、「美人」女優たちがどのような役割を引き受けていたのか、という問いは残りますが。
男性のジェンダー規範は壊すが、女性のジェンダー規範は、まだ完全には壊れない。
そして、ジェンダー規範を壊そうとする哀れな男性には、「マドンナ」が自動的に惚れてくれる。
『男はつらいよ』を、そんな日本映画のジェンダー観が大きく変わっていく「過渡期の映画」として見ると、とても面白いと思っています。実際、研究でも寅さんとその世界の特徴を「矛盾」や「両義性」として捉える分析があります。
ちなみに、僕の人生にはそんなマドンナとの燃えるような恋はなかったわけですが(とか書くとパートナーに叱られますが<伏線回収)
などなど書き始めると、『男はつらいよ』だけで一本論文が書けそうです(笑)。いやいや、この映画には熱烈なファンも多いので、これ以上深入りするのはやめておきましょう。
少なくとも、『男はつらいよ』は単純に「昭和の古い男性中心社会を描いた映画」だったのではなく、むしろその社会の内部から、それまでの「男らしさ」を少しずつ壊しながら、新しい男性像を模索していた作品だったと思います。
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本題に戻りますが、こうして地図で見ると富山・高知・埼玉が未訪だったようで、これも松竹のWebサイトの情報と一致します。まぁWebサイトで確認すればよいのですが可視化できることが今回の企画の趣旨なので。
ご高覧下さい。
『男はつらいよ』ロケ地
追記:実はさくらは、「自由に生きる(新時代の価値観を持って生きようとしている)兄を現実の旧来の価値観に引き戻す」役なんですよね。実は劇中でのさくらのポジションというのは、寅さんに「いつまでも馬鹿なことやってないで、こちらに(旧価値観体系に)もどっておいで」という実は旧体制の刺客(笑)なのかもしれません。


