じめじめと生きて、じめじめと死ぬ

最近氷河期世代をめぐるあれこれが、多く語られるようになった。その「あれこれ」は、悲しい話のオンパレードなのだが、それらを読みながらとても苦しく感じている。すでに社会学者や人口学の研究者が何度も指摘してきたことばかりで、「何を今更」という思いもある。・・・そういう思いもあるのだが、それでも、日本社会がやっとこの問題に向かい合うようになった、ひいては前進したということなのだろうか、とも思う。
僕もまた氷河期世代の人間で、特に研究者業界を見渡すと「偶然自分は就職できたけれど、そうでない人のほうが大勢いた世代」と自己定義している。だから、自分の人生を「自力で開いた」という感触がない。もちろん、「努力しなかった」と言えば嘘になる。けれど、努力だけでなんとかなる時代でもなかった。何より、努力しなくても幸せになれる生き方ができるのなら、それも世の中的には決して悪くない。だが、氷河期という貧乏くじを引かされた世代に生まれたことは、僕のなかにある種の「恨み」を残した。第二次世界大戦期にさまざまな形で不本意な死を遂げた人々がそうであったように、僕もまた、その「恨み」を抱えたまま残された生を生きていくのだと思う。
悲しいことに、それは第二次世界大戦のように数年で終わるものではない。すでに30年「失われた時代」が続いてきた上、これから我々が死ぬまで、おそらくあと30年「失われいく世界」は続くのだろう。戦争が理由ではなく、経済政策の失策による特定世代への不公平な負担の押しつけは、その世代が死に絶えるまで続く。これから、就職氷河期世代の怨念が噴出するだろう。5年経てば人口ボリュームのもっとも大きい世代が60歳になり、10年後には65歳になる。年金だけでは生きていけない層が増え、生活保護の申請者数は増加し、独居老人の孤独死も間違いなく増える。それは、個人の責任に帰することのできない、社会の苦しみの連鎖の表れだ。
僕の人生は、自分はなぜ死なずに生きているのだろう——そう思うことの連続だったから、いつか"ぱん"と、潔い擬音とともに僕の命は尽きてしまうのだろうと思っていた。でも今は、"ぱん"という潔い音ではなく、「じめじめ」とした終わり方をするのだろうと思うようになった。「じめじめ」としか形容しようのない、だれからも忘れ去られた死を、僕はどこかで迎えるのだろう。そして、僕の周辺の同年代も意外にそう思っていることが多いのだと知った。
考えてみれば、僕は「じめじめ」と生きてきた。そして、「じめじめ」と死ぬのだろう。
主の平和。


