私がオススメする渾身の一枚その③(まちおん連載9回目)

しあわせのパン

さて3回目のこのお題「私がオススメする渾身の一枚」ですが、今回は矢野顕子(2006)「はじめてのやのあきこ」を紹介させていただきます。

矢野顕子の生み出す楽曲の世界については、もはや語り尽くされていて、「もはや語りうることなどないのではないか」という思いがする。するんだけれども、僕にとってはまだまだ語り足りないミュージシャンでもある。
そして、他のミュージシャンはどのように矢野顕子を語っているのかとても気になる。その答えあわせになるのが、この『はじめてのやのあきこ』だと思う。

「はじめての」というタイトルにだまされてはいけない。これは「矢野顕子という聖典」を世のアーティストがどうとらえ、どう自身の中で再解釈したかを示す「それぞれのアーティストによる矢野顕子再解釈集」という感じなのだ。

収録曲は以下のとおり。

1.自転車でおいで with 槇原敬之(作詞:糸井重里、作曲:矢野顕子)
2.中央線 with 小田和正(作詞、作曲:MIYA)
3.PRESTO(作詞、作曲:矢野顕子、岸田繁)
4.ごはんができたよ with YUKI(作詞、作曲:矢野顕子)
5.架空の星座(作詞:井上陽水、作曲:矢野顕子)
6.ひとつだけ with 忌野清志郎(作詞、作曲:矢野顕子)
7.そこのアイロンに告ぐ with 上原ひろみ(作詞、作曲:矢野顕子)

どの曲も矢野顕子をそれぞれのアーティストが自分の世界に矢野顕子を引き込み、またあるときは矢野顕子に飲み込まれていてき惚れてしまう。

矢野顕子のソロピアノが圧巻の「PRESTO」と上原ひろみが参加した「そこのアイロンに告ぐ」は矢野顕子のピアノが好きという層にも満足いくだろうし、槇原敬之、小田和正、YUKI、井上陽水、忌野清志郎の参加した楽曲はいずれも自身の世界に矢野顕子を取り込んでいる様が圧巻で、どの曲もとっぷりと矢野顕子とそれぞれのアーティストの魅力を引き出していると思う。ともかく全てのアーティストが最高なんである。

そんな「どの曲も掛け値なしに素晴らしい」アルバムなのだが、それでも敢えて一曲だけ、忌野清志郎が参加した「ひとつだけ」について語ってみたい。

「ひとつだけ」はもともとアグネス・チャンのアルバム(1979)『美しい日々』のために作られた曲だ。

その後、矢野顕子自身によるセルフカバーが1980年に出たアルバム『ごはんができたよ』の1曲目として収録されている。

アグネス・チャン版と1980年版の矢野顕子自身によるセルフカバーは、テンポも速く当時流行のシンセサイザーやボーカルのエフェクトが「これでもか」と言わんばかりに詰め込まれている。この両者のアレンジは、1980年ポップスの編曲としては王道中の王道だった。当時のアグネス・チャンのファンはクラクラしながら「愛してる」(<アグネス・チャン版では、最後の台詞の「ねぇ、お願い」が「愛してる」となっている)の台詞を聴いたのではないか。また、歌詞の中に唐突に「中華料理」が出てくる理由がアグネス・チャンが歌う事を前提としているからなのか、と思う。

本アルバム収録版の「ひとつだけ」は上述した二つのバージョンと異なり、全編を通して矢野顕子のピアノだけで伴奏を行う。先の二つのアレンジと異なり、この曲は「アコースティックで演奏するために書かれたのか」と思うほど。そして矢野顕子も忌野清志郎も相当にクセのある歌い方をするのだが、その二人の声が重なるとこれ以上ないほどの優しいハーモニーになる。この「矢野顕子with忌野清志郎」バージョンは、その後矢野顕子のコンサートでは忌野清志郎がゲストで、忌野清志郎のコンサートでは矢野顕子が登場して演奏するなど頻繁にライブ演奏されたようで、その模様はYoutubeにもたくさん散見できる。特に忌野清志郎の死後、2011年に公開された『忌野清志郎ナニワ・サリバン・ショー~感度サイコー!!!~』では二人の息の合った様子が見れる。アイドルがファンに向けて放った言葉と曲が、大人の二人の関係に成就し、もはやこの曲をアグネス・チャンの曲だということを知る方が少なくなり「矢野顕子with忌野清志郎」の代表曲の一つになっている。

そして、今回紹介する「はじめてのやのあきこ」バージョンでは、スタジオ録音だけあってとてもクリアにピアノの響きを楽しむことができる。また、ライブ盤で二人がノリノリのときに演じるアドリブが全くないため、矢野顕子の詩の美しさがストレートに伝わってくるのもファンとしては楽しい。心に届く距離が近く、ストレートに涙腺を刺激する。アグネスチャンが仮想の恋人との間の「ふたり」を連想させるのに対して、矢野顕子with忌野清志郎バージョンでは、恋人だけでなく、友人、親子といったさまざまな「ふたり」が連想され、それぞれの間の心のありかたについて考えてしまう曲になっている。

この曲にこうした感想を持つのは、どうも僕だけでは無かったようだ。当時テレビディレクターだった三島有紀子は、この「ひとつだけ」にインスパイアされ映画を一つ作りあげる。それが原田知世と大泉洋が主演した(2012)『しあわせのパン』となる。映画に登場する北海道の春夏秋冬の風景、そして登場する人々の優しさ、そして主演の二人の醸し出す優しい雰囲気に触れると、もう「矢野顕子with忌野清志郎の「ひとつだけ」」ははじめからこの映画のために作曲され、歌われる運命だったようにも思う。一つの素晴らしい映画を生み出す力を持った名曲にまで成就している。

忌野清志郎の死後、ライブでこの曲を聴くことは二度とできなくなり、まだライブ盤は多数Youtubeにアップされている。とはいえ、そうしたライブ盤とは別のものとして、アルバムで聴くことができるのは感謝しかない。

「素人風情が何をえらそうに」と思うかもしれないけれど、それをいっちゃこの企画自体が全てお終いになるんでそこはお許しいただいて、「ひとつだけ」だけでなく、この『はじめてのやのあきこ』のアルバム収録曲はどれもほんとうに凄い。語り出したらキリがないので、どうか皆さん自身で、このアルバムを一度聴いて貰えたなら、推薦者としてこんな嬉しいことはない。