10年ぶりの担任

2年ぶりの本務校での勤務がスタートし、1年生の担任を拝命した。高等専門学校の業務のうち、担任業務は学生指導のコアとなる業務の一つである。高専の教員は、学生指導の他研究業務も平行して行わなければならない「激務」であるというのも正直な感想である。大学に勤務する友人に「高専教員はクラス運営のために、保護者への連絡・三者面談のほか、体育祭・文化祭・クラブ活動指導などに参加している」ことを言うと酷く同情されたことを思い出す。高校教師と大学教員の二足の草鞋を履きながら、日々の業務をこなす全国の高専教員の同僚達は尊敬に値すると思う。

ただ誤解を招かないよう付け加えておかなければならないのだが、その「大変」さは「面倒くさい」という言葉で表現される種類のものではなく、「自分がハマってしまう」大変さである。クラスの担任になるというのは、その1年間だけの付き合いではなく、一生付き合うことになる責任も負うことになるのだと思っている。他の教員とも話をするがやはり担任をすると、「自分の受け持っている学生が可愛くなる」という現象から逃げることができなくなる。ドライに「1年間だけの付き合い」として担任をしてもいいのだけれども、一人一人の学生の生い立ちや夢を聞くと、とても彼らとそうした制限を付けて付き合うわけにはいかないな、と思う。2年後、3年後、いや卒業したあとこの学生達がどういう人生を送るかいつも考えながら行動をしなくちゃいけないように思え、その結果担任業務だけが増え、自分の研究時間を削ることになるのだが。それは研究者として生きる術を逃してしまい非常に悲しいことなんだけれど。

ただ、この10年間に僕のほうでも少しウェイトが変わって、「自分の研究者としての夢を削って、学生の夢を与える」というスタンスではなく、「学生の夢を実現させることが自分の夢」と肯定的に受け取れるようにはなってきた。

丁度このGW期間中に『カンゾー先生』のDVDを購入して、研究室で視た。映画館でみてからその後視る機会が無かった映画なのだが、時折思い出していた映画だ。僕もいつか自分の功名心から解放されて、目の前の学生と向かい合えるだけの無心な状態になれるだろうか。

時々迷うことはあるけれど、たぶん今の場所が僕に与えられた丁度良い場所なんだろう。

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そんな担任業務が始まり1ヶ月が過ぎた。この短い期間に、学生から何気ない形で「小さなプレゼント」をいくつかもらった。

御父兄からのメールで

「このクラスが好きで毎日学校にやってくることが楽しい」

と語ってくれる学生が何人かいたらしい。そんな学生の小さな言葉の一つ一つのうちに僕は教員をすることの意味を見いだせるのかもしれない。