長谷川豊とアイヒマン

2016年9月現在、相変わらずチェンマイで研究活動を送っているのだが、現在大変な量の仕事がはいりアップアップしている。こんな文章を書いているヒマがあったら、とっととそれらの仕事を済ませるべきなのだが、2日間深夜近くまで作業をしてもまだ目処が立たない。自分の仕事の量を自分でセーブできないというのは大きな問題で、僕の場合はいつも「何か」に動かされて仕事をしているような気がする。ただそうした仕事の際には、「一執筆者」としてのソツのない振る舞いができることのみが要求されるのであって、そこに自分の感情を挟み混む余地はない(もちろん、全ての文章は著者の感情から完全に手が離れるわけではなく、文責を免れるわけではないが)。

自分のアイデンティティをどう定義するか(なんならどうやって「自分らしさを表出するか」と言い換えてもいい)。この問題に心を痛める人々は多い。たぶんそういうとき、人は旅をする。それは遠い異国の土地や近場の空間だったり、または時に荒野よりも風当たりの強い自分の心の中だったり。かくいう自分自身も「自分探しの旅」を続け、結果として一生を「自分探しの旅」に費やすような人生を送ってしまっている。こうやっていつもふらふらとアイデンティティが固まらずにいられることの重要性をわかりつつも残念ながらアイデンティティが揺れ動く自分と向かい合う自分と向かい合うのは大変に心苦しいものである。「自分は○○である」という単純な自己認識ができて、その「○○である」というアイデンティティからくる行動様式を忠実にこなすことができれば、それはそれでなんと易しい人生であろうと思う。

その一方で、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判の傍聴から考察したように、自分の中に固定化されたアイデンティティがあるほうが、実は他者に対して危害をくわえることに躊躇がなくなるのだという主張にも同意する。こういう「自分のアイデンティティが固まらずにふらふらできること」を不惑を過ぎても続けられる自分は幸福なのかもしれないとも思える。本人としては非常に疲れる人生ではあるけれど。

そんなことを考えながらチェンマイでの日々を送っている昨今、あの長谷川豊の炎上事件が起きた。すでに多くの方が指摘しているとおり、彼が書いた文章の内容も、書かれている言葉の稚拙さにもまったく同情する余地がない。「意見の違う人間」ということで、放置しておけば良いだけの話なのだが、彼の年齢が自分と近いことや「元」フジテレビという肩書きにこだわるあたりなどに、自分の嫌な部分を見せつけられているようで他人事と思えなかった。

ブログを読んだ感じでは「アナウンサー」であることに自意識過剰になっている長谷川が、「(自分の考える)アナウンサーである」ことで自滅しているように思えた。その姿は、元フジテレビアナウンサーというアイデンティティを捨てた長谷川が、再び自分のアイデンティティを模索し、闘っているように見えて非常に痛々しい。不惑を過ぎてもなお自分探しの旅が終わらずにいるような自分には、とても人ごととは思えなかった。「アナウンサーである」という自己規定のみでものを見ると、時に「父である」「家族である」「誰かの恋人である」「地域のメンバーの一員である」自分を見失わせる。人間のもつ多様なアイデンティティを捨てて、敢えて特定の「アナウンサーである」ことにこだわる理由が僕には少しだけわかる。それはとても「楽」な行為なのだ。

長谷川豊の炎上事件を長谷川豊のパーソナリティのみに(<もちろんそこが大問題なのだが)負わせてしまうのは危険だと思う。むしろ、「アナウンサーである(彼の中では、国家の存亡に関わる問題を世間に広く知らせる、というような意味合いで捉えられているようだが)」という単一のアイデンティティを振り回す長谷川に対して、肩の力を抜かせ、複数のアイデティティを有する自分に向かい合うように勧める人がいないこと、そしてそういう役割を長谷川に押し付けている方々(医信とかいう団体など)の存在など、これまた現代的な問題だと思う。「選ばれた」人間による他者の排斥について、オウム真理教の事件の時に感じた不快感と同じものを感じる。

今回の長谷川豊に関する議論のあれこれを全て追っているわけではないのだが、個人的には以下のtweetがいちばん共感できた。

こういうアドバイスを長谷川にしてあげられる方が周囲にいなかったこと、また寄せ付けなかったのが彼の不幸なのではないかと思った。

※こういうことを書かないと判らない方がいるので書きますが(書いても判らない方はいるのですが)、今回の(これまでの文章も大多数含む)長谷川の書いていることには、不快感しかないことを言明しておきます。