カナリヤが鳴く時

「英知を結集した原子力科学技術・人材育成推進事業 廃止措置研究・人材育成等強化プログラム」という長く(酷いセンスの)ネーミングのプロジェクトに参加するようになって半年が過ぎた。

残念ながら、廃炉をめぐる現状は何一つ変わらないまま5年が過ぎようとしている。というよりもこの数ヶ月で悪化しているとさえ思われる。オリンピックやパラリンピックで日本が盛り上がっているタイミングで発表された福島をめぐるいくつかの事案は、福島をめぐる環境がさらに手の付けられない状態に陥っていると考えざるえない。

技術的な点では、あれほど期待された凍結土による汚染水のブロックについて、東電から、福島第一原発の凍土遮水壁は完全に凍結させることが難しいとの見解が示された(7月20日)。これまでの「完全閉合」(100%凍結)からの方針転換である。

デブリ(メルトダウンで生じた核燃料と融合した物質)に関する回収の見込みも全くない。上記の「英知・・・事業」でもデブリ回収についての研究が始まりつつあるが、原子力損害賠償・廃炉等支援機構(NDF)は7月13日、デブリをチェルノブイリと同様にコンクリートなどで建屋内に閉じ込める「石棺方式」を盛り込んだ初めての計画書をまとめた。もちろんこの計画書は出された直後から地元福島の複数の自治体から猛抗議をうけ、早々と撤回するという状態になっている。この数年、研究チームが「頑張っている」ということには関連する研究者達と近くで接していて大きく同意する。NDFは、デブリ回収に向かい合う各研究者の思いをも踏みにじろうとしている。

仮に(としか僕の立場では言えないのだが)、600トンも発生したと言われているデブリを回収する見込みはまだ立っておらず石棺方式をNDFはその専門的な見地から現実的な方法だと判断したとしても、科学の素人集団である自治体には頭があがらないらしい。その程度の抗議で引っ込める計画書であるならば、初めから出さなければよろしい。「残念ながらデブリを完全に回収することは不可能で、福島を元の状態に戻すことは不可能である」ということを認めてはどうか。地元自治体もこういう苦しい発言を実際に撤去作業に従事するNDFにするのはさぞ労力がいると思う。そして「自分達にはデブリ回収を可能とする技術を近々完成可能で実用可能である」と絶対言えないプログラム参加機関のメンバー(特にデブリ回収についての研究を行う研究チーム)に科学者としての良心があるのか、と思う。

苦し紛れのウソではなく、ウソをウソで塗り固めることは、人を更に傷つけるだけだと思う。

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先日、島根での勉強会に呼ばれ、こういった廃炉事業を巡る問題点について話してきた。この勉強会は事故後に各地で開催された勉強会などの集まりで、今でも継続している数少ない勉強会の一つである。松江在住のシンガーソングライター浜田真理子さんを主催者として、信頼できるスタッフと共に福島から遠く離れた島根で今も開催されている。

なぜこうした勉強会を継続しているのかについて、浜田さんに聞いてみた。浜田さんは

「音楽家はカナリヤだから」

とてもシンプルに答えた。

カナリヤは炭坑夫と共に坑道に入り、ガス漏れなどの異常を人間よりも先に検知することができる。通常さえずっているカナリヤは、異常ガスによって真っ先に死んでしまうため、それをみて炭鉱夫は危険を察知し避難する。つまり、私たちの社会の異常性を気付くことができるのが音楽家なのだと浜田さんは言う。最近浜田さんのエッセイを読み、彼女の歌の力強さを知った。愛を語る歌がこれだけ多く必要とされる社会は、その半面、多くの愛が世の中に満ち足りていないのだと思う。そして、世の中に愛が満ち足りていないことを知った音楽家はカナリヤのように愛を語るのだろうか。

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いつも研究をしながら思うのだが、僕自身は自分のような研究者など世の中に存在しなければよい、と思いながら発表し、論文を書く。今回シンガポールで報告したモン族の誘拐婚(Abdunction Marriage/Kidnapping Marriage)は、とても好評だったのだが、僕自身は自己否定をしながらいつも研究をしている。

「自分の研究が存在しなければ、世の中はもっと幸せである」

という研究テーマは世の中にある。早く自分のような研究者が必要とされない世の中になってほしいと思う。そしてその一方で、褒められると喜ぶ自分の浅いところと向かい合うのは年齢的にも相当に酷だったりする。かくも自分は弱い。自分を好きになるのは不惑を超えてもまだまだ難しく先が長い。少数民族の女性についてのDVについてのあれこれや、原発立地や事故によって土地を離れていく人々のことなど話題にならないほうがいい。こういう研究業界が立ち上がらない世界のほうが幸せだと思いながらも、評価されようとする自分の弱い心と向かい合うのは難しい。

早く自分の研究など不必要な社会になればよいと思う。世界を恨まずに死ぬことができる人がいなくなればどんなに幸せだろうと思う。もちろん自分も含めて。

自分はカナリヤになれるだろうか。