Bangkok Brass Bandの定期演奏会を終えて

先日の日曜日に現在所属する吹奏楽団Bangkok Brass Band(以下BBB)の定期演奏会があった。
オープニングのJ.Barnes作曲のアルヴァーマ序曲(Alvamar Overture)から始まり、アンコールまで楽しい演奏会だった。

その「すばらしさ」について書くとどうしても演奏者側の手前味噌的な例示になってしまうのだが、とにかく一体感がすごい。演奏会を離れたところで、集まっているメンバーの団結力がすごく、終了後のパーティーまで含めて非常によく企画されたイベントだった(詳細は諸事情で書けませんが)。といっても、コンサートの聴衆には分からない話で、そういったコンサート外のことを評価されても困ると思うが。

ところが、この「コンサート外」の点こそが海外の邦人吹奏楽団であるBBBを語る上でとても大事な点である。

この楽団は、総勢50名を越えるメンバーからなる吹奏楽団で、邦人が中心に形成されていながらも、タイ人、英国人と多くの国籍のメンバーが参加している。また、もう一つ重要な点として邦人も駐在員から、現地永住者、そして学生、また赤木攻が定義したような国際浮游者まで幅広い。

※「国際浮游者」に関する赤木の定義は以下の通り。

「きちんとした数字はなくあくまでも推計であるが、語学学校に通うものも含む「留学生」と称する日本人の数はバンコクだけで1,500人に達するという。しかし、彼/彼女らのほとんどは学校に通い勉強に励むどころか、毎日毎日を成り行きに任せる「その日暮らし」であるという。もちろん仕事の機会があれば働く場合もあるが、働いても長続きはせず、せいぜい一ヶ月ばかりでまた「その日暮らし」に戻るという。こうした類のものを「国際浮遊者」と呼ぶことにしたい。」赤木攻「「天使の都」に浮遊する日本人―日タイ関係と日本人社会の変容―」『アジア遊学 No.57』2003、勉誠出版、117:125

一般の方々には「なんだそりゃ」的なお話なのだが、社会科学者が扱ってきた難問の一つに「社会集団がなぜ形成されるのか」というものがある。そしてこの難問にそれぞれの時代で、それぞれの学者が社会集団を分析していった。

そうした社会集団の分析の中で最も古い分析は、テンニースによるゲマインシャフト(Gemeinschaft、共同体組織)、ゲゼルシャフト(Gesellschaft、機能体組織、利益社会)の区分であろう。端的に言えば人間社会が近代化すると中であっても、地縁、血縁、友情といったもので自然発生的に発生する社会がゲマインシャフトであり、会社・学校などのように利益や機能を第一に追求する社会集団がゲゼルシャフトである。

現在別の国でやはり邦人吹奏楽団を立ち上げているBBBの発起人のお一人と話をする機会があったのだが、BBB創立のきっかけは単純に「楽器が演奏したい」というだけであった。前述したテンニースの区分をそのままBBBに当てはめるのはためらわれるが、無理矢理あてはめると、「楽器が演奏したい」という、利益と機能を第一に追及するゲゼルシャフト的な社会団体としてBBBは創立した。

だが、現在その中のメンバーとして活動を共にしていると、ゲゼルシャフト的な集団が、徐々にゲマインシャフト的な集団へと移行していく様が見て取れる。家族ぐるみの付き合い、吹奏楽をするために集まったはずのメンバーによる定期的な飲み会の他、ゴルフやダイビングなど、その付き合いは非常に地縁・血縁に近い団体へと変化していく。無論これまでもゲゼルシャフト的な社会集団が、ゲマインシャフト的な社会集団に移行していく事例は研究が多く散見されているが、ことタイの邦人社会の中でこの動きがあることは正直驚きだった。何より、タイの邦人社会はすでに分断されており、駐在員社会と永住日本人、国際浮游層の接点はなかなか見つけにくい。

現在別稿で「タイの邦人社会の分断が加速されており、特にフリーペーパーがターゲットとしての駐在員と永住者を分断を助長している」という論文を書いている(10月にチェンマイの学会で発表します)。詳細はその原稿にゆずるが、現在タイの邦人社会は分断がくり返され、互助組織としての日本人会が軽視される傾向にある。タイの邦人は「助け合う」必要がなく、フリーペーパーやネットの情報を頼りに一人で生きることができ、「邦人コミュニティ」を作る必要もない。駐在員に至っては、会社組織のゲゼルシャフト的社会集団に属していればそれでよく、永住者・国際浮游層と接点を持つ必要もない。

だが、BBBは真逆でそうした分断されつつあるタイの邦人社会をぎりぎりでつなぎ止める役割を担っている。上述したメンバー構成のとおり、参加者はそれぞれの生活と離れたところで集まってBBBは形成されている。プライベートな話なので、個別に聞いたりはしないが、それぞれの年収も相当に差があるであろうし、また各人の教育歴も大きく異なる。

なぜこうした集団が集まるのか。それは一つには吹奏楽の持つ技術へのリスペクトにあると思う。それを象徴するのは指導者・指揮者のI先生のことである。彼は、バンコクのオーケストラの常任演奏家であり、バンコクでは邦人の音楽グループについて、吹奏楽のほか合唱団も指導している。加えて日本語だけでなく、タイ語、英語を交えて指導できる力量のある方で、またその話題提供も非常に豊かで団員皆が尊敬の念を抱いている。(まさかミスサイゴンの曲中のベトナムの喧噪を表現した箇所の表現に「水曜どうでしょう」のベトナム横断話が出てくるとは。。。)

ここもやはり重要なところなのだが、一人の音楽家が存在するためには、その音楽家が持っている技術がいかにスゴイ技術であり、常人には身につかない技術であるかを理解するフォロワーの存在が必要になる。具体的に言えば、例えば音大などを卒業しても音楽の道を諦めざる得なかった無数の人々、吹奏楽コンクールを経験して例えば全国大会の金賞を受賞する団体においてレギュラーを取ることの苦難を知っている人、山野のジャズフェスティバルに出場する団体の演奏を見ながら同年代の演奏家が自分よりも遥に優れた技術を持っていることを知っている人、そうした無名の幾人もの無念と挫折があって、専門家は存在することができる。ゲーデルを持ち出すまでもないが、専門家の凄みは、専門家どうしではなく、そのフォロワーによってしか証明できない。

余談だが、同様の専門家に対する畏敬は、残念ながら現在の日本ではないがしろにされている。数十年かけて憲法学を学んだ憲法学者に対して、法学をろくに学んだことのない「善意の」大衆による批判が公然とまかりとおる時代が到来してしまった。タイの邦人社会が崩壊していく過程は、何もタイだけで生じているのではない。日本でのコミュニティの崩壊と同時進行的に行われており、失われつつある知のピラミッドとその頂点にいる人への畏敬がこのバンコクではちゃんと存在している。また、駐在員・永住・国際浮游者といったどのような立場でバンコクにいるにせよ、演奏がウマイかヘタか、という技術を基準としたピラミッドの下でBBBの活動が進められていることが逆にBBBの結束を強くしている。ゲマイン的な社会集合体の存在意義はその後にしか登場しない。

この高度情報化社会の中で、「人が必然的に集まる」必要性はない。そのこと自体を否定するつもりはなく、例えば日本でネットワークにどっぷり浸かりこんでインターネットを介した接点しかいない人々がいてもそれはそれでそういう生き方があって良いと思う。だが、それでも「繋がりたい人々」は存在する。究極の引きこもりは僧院や修道院での修行であると思うが、そうした孤独に耐えられない僕のようなさみしがりやの人間の行き場はやはり必要だ。音楽をする、という目的のために集まった集団であっても、深夜まで酒を飲んだりゴルフをしたり、仕事の愚痴を言い合ったり、恋バナに盛り上がる空間を欲することはあるのだ。

赤木攻は別の文章で次の様に日本人社会の分断を指摘する。

「つまり、我々はどうも海外に拘わる同胞を正統と非正統に分けてしまう悪い癖をかなり古くから背負ってきているようである。「東京」や「日本」のコントロール下で働いていて、いずれはもどってくる「駐在日本人」は仲間とし、「東京」や「日本」をバックに持たない「永住日本人」、「東京」や「日本」にもはや帰る機会のほとんどないであろう「永住日本人」はみはなしてしまっているのではなかろうか。つまり、我々は「村八分」を意識の上で犯しているのである。」赤木攻『タイの永住日本人』めこん、1999、188頁

赤木の指摘を受けた上で、それでも、それに対抗できる邦人コミュニティの再構築の一つのムーブメントとして、BBBの動きがあると思う。

単なる参与観察者ではなく、僕もまた浮游する日本人の一人としてBBBでトロンボーンを吹けることを幸せだと思う。

追記(8月7日)当方の勘違いで、発起人の方を初代団長と書いてしまいました。訂正いたします。申し訳ありませんでした。