好きなことでゴハンが食べられるようになった

我が家の近くのスターバックスにて学会投稿論文を仕上げながら、10年前に留学していた頃のことを思い出した。

その時住んでいたアパートは、ここから50メートルも離れてなくて、やはり僕はこのスターバックスでよく原稿を書いていた。あの時、僕はどんな気持ちでこのコーヒーを飲んでいたのだろう。そんなことを考えながらコーヒーを飲む。

法社会学なんていう先のない学問で食べていこうなんて思ったのは何故だったか、日本でもタイでも貧しい人と寄り添おうと何故思ったのか。もちろん今でも法社会学徒であることについて思うところはあるが、10年前に考えていたことと同じだったのだろうか。

「今」に限らず、「日本」に限らず、「やりたいこと」だけを語っていれば良かった学生時代と異なり、社会人となると食っていくために「やりたくないこと」もやっていかなければならなくなった。就職した頃は、あんなに喜んで「やりたいことができる」と思った職場で、今は多くの「やりたくないこと」に接している。たぶんどんな世界でも「やりたいこと」だけで生活していけるものではない。そんなことを不惑を越えて知るようになる。大学院を出たところで、その多くの学生が望む教育職など就けるわけもないことを頭では理解していたが、実感として理解するのはまた別のレベルだ。

ただ、それでも今の僕は「好きなことでご飯が食べられている」ほうなのだと思う。そして、ときおりそんな今の自分の立場が信じられなくなる。10年前と同じコーヒーを飲みながら、自分が変わっていったのだなぁ、と思い直す。

月日が過ぎ、世界の広さや美しさを感じたまま生きた馬鹿な若い研究者ではなくなり、世界の残酷さや哀しみに苦しんだ青臭い研究者でもなくなった。いや、それはそれで馬鹿で青臭い研究者であることには変わらないけれども。それが良いことなのかどうかわからないが、変わっていった自分について、なんの代わり映えのないコーヒーを飲みながら考える。
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