死刑制度とAKBメンバーの丸刈り

先日(2月10日)にTBSの『報道特集』で、死刑制度についての特集が組まれた。執行官の苦悩や、元死刑囚の苦しみなどについて深く迫った、とてもよい特集だったと思う。死刑執行のプロセスを映像や音声をもとに組み立ててあり、大変な労作であると思った。もちろん、被害者遺族のケアの問題など、限られた番組の尺では、死刑制度の撤廃について山積する問題全てに言及するにはいたらなかったが、次回も期待したい。

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今更ながら、ではあるのだが、この死刑制度の特集を見ながら、AKBの女の子がスキャンダルで丸刈りにになった件についても感じたことがあった。

あまりにも多くの発言がすでになされているのだが、おおざっぱにまとめると今回のスキャンダル及び丸刈りについては、女性アイドルを丸刈りにして謝罪させる企業社会のいびつさ、といった視点で論じている知識人が多いようだ(もちろんAKBを支持する人々からは、「よくやった」、「何もそこまでしなくとも」、「ファンを辞める」といった視点からの意見もあった)。

和光大学教授の竹信三恵子(朝日新聞の元編集委員)が2013年02月06日でWebronzaで書いていた「AKB48丸刈り謝罪、ブラック企業論からの検証を」という記事は、そうした知識人の意見の代表みたいなものだった。(前半はhttp://astand.asahi.com/magazine/wrbusiness/2013020500007.html?iref=webronzaで読めます)

> AKB48の○○(註:伏せ字にしました)さんの丸刈り謝罪に、AKBよ、お前もか、という思いにとらわれている。この事件についてはさまざまな疑問の声も上がっているが、特に気になるのは、今回の事件に、日本のブラック企業文化の影が色濃く感じられことだ。

という導入で始まるこの文章は、「丸刈り」について、企業の責任を指摘している。

> 次の共通点は、「組織が命令したわけでなはなく、当人が勝手に決めたこと」として、組織の責任が不問に付されていることだ。

結局のところ、一人のアイドルがなぜ丸刈りにしたのか、その真相は薮の中だ。自発的なものだったのかもしれないし、また周囲がそうさせたのかもしれないし、竹信の指摘のとおり、日本全体に蔓延するブラック企業文化の産物なのかもしれない。もっと直接的に言えば秋元康と芸能界という特殊な業界がもたらした悲劇だったのかもしれない。

だが、彼女が強制的ではなく、自発的に「坊主になる」という選択肢を選び、それが会社文化の中で培ったものではなく、彼女自身がAKBに入る前の段階で身につけていたものだとしたらどうだろう。ひょっとすると我々は「彼女が自ら丸刈りになったと思いたくない」だけなのではないか。「会社文化にそまった少女は犠牲者だ」という言説を取ることで安心したいだけなのではないか。

むしろ、日本で最も支持されている「国民的アイドルグループ」のメンバーのそれも中心メンバーになれる人物だからこそ、日本社会の「坊主になる」という選択肢を躊躇なく選ぶことができたメンタリティを持ち得ていた極めて日本的な感覚の持ち主で、日本社会での「素直な良い子」だったのだと思う。

そもそも剃髪が仏教の修道者が、俗世間と縁を切るために行った(隠遁する)行為であることを考えると(事実、このアイドルは研究生へと格下げになり、マスコミでの露出はなくなった)、「他人に迷惑をかけたら、自分が社会との接点を絶つことで責任をとる」という古い日本のメンタリティが今も残っていることのほうが、なんだか怖い気がする。考えてみたら、AKBでは、男女交際のペナルティですでに福岡に左遷(おお、まるで平安時代の菅原道真そのままだ)されたメンバーもおり、5年前の話題になるが、2007年のWBCフライ級タイトルマッチでは、当時18歳だった少年が「負けたら切腹」(これは究極の社会との接点の遮断)と発言する。今の若者の間に「謝罪=社会との関係を絶つ」という考え方しかないことを、我々その上の世代は認められないのではないか。「謝罪=社会に奉仕する」というやり方だって若い世代には教えるべきで、「一度失敗した人間は社会との関係を絶つ」しかない社会は息苦しいだけだ。

少なくとも、彼女の周囲にいる大人は、「謝罪=社会との関係を絶つ」という考え方以外の「謝罪=社会に奉仕する」という考え方があることを教えてもよかったのではないか。その点において、彼女の周囲にいた企業の方々(いわゆる大人の方々)の責任はあるだろうが、でもこれは日本社会そのものの問題だ。「謝罪=社会との関係を絶つ」ということしか認められない社会は、ジャンバルジャンを脱走犯としてひたすら追いかけるだけのジャベール警部だらけのフランス革命後の混乱している社会と同様ではないか(映画版のレ・ミゼラブルでは、ラストでジャベール警部が自責の念に駆られて命を落とすのですが)。

日本で死刑制度が絶えない理由の一つもそのあたりにあり「謝罪=社会との関係を絶つ」ということを是認する私たちの社会が、彼女を坊主にさせた。「謝罪=社会に奉仕する」という考え方を認められる社会にならない以上、私たちの国では死刑制度が撤廃されることはないだろう。

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ふと思ったのだが、よく時代劇に出てくる切腹のシーンの介錯人の中にはPTSDになった方などはいなかったのだろうか。たとえ自分の責任ではないにしても、自分で同じ人間の首を切り落とすことについて、自責の念はうまれなかったのだろうか。たぶん、あっただろうと思うのだが、それは武士社会では表にでてくるものではなかっただろう。「切腹した方を少しでも早く楽にさせるため」という大義名分があり、そのことが介錯人の自責の念を軽減させたのではないだろうか。考えてみればギロチンの発明も、死刑者を早く楽にさせるための人権的な見地からの「画期的な」発明であったし。

私たちこそがあのアイドルの丸刈りをさせ、介錯をした張本人だ。切腹者がお腹に刃を当てたように、丸刈りを選んだ行為そのものは、彼女自身の責任だが、我々は介錯した自責の念にとらわれないため、企業論に落とし込んでいるだけの話なのではないかと思った。

追記

どなたか介錯人が自責の念に駆られていた、またはまったくそう思っていなかった、というような資料の存在をご存じの方がいらっしゃったらご教示いただけましたら幸いです。