あんみつや

ひきつづき、体調は絶不調。天気も暗雲立ちこめる今日このごろなんですが・・・。

友人が体調不良の僕を気遣って、あんみつを買ってきてくれました(T-T)。

あんみつの差し入れなんてすばらしすぎます。うう、うう。

吉祥寺界隈をねぐらとしていた時期に、虎屋のあんみつをけっこう食べに通っていたのですが、まぁなんというか、 この近くにもこんなにおいしいあんみつを作るお店があるということを知り、ただただ感激でほっぺたがゆるみっぱなしです。

病院との往復もはやくやめたい今日この頃、おいしい話についてはとまらない今日このごろで、「幸せだなぁ」と思う毎日です。

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このところ学生を叱らなくてはならない状況がけっこうあって、人を叱る事になれていない僕は、 ついつい本気で怒ってしまって反省することが多いです。

人を傷つけるような言動は慎みたいのですが、ついつい相手が学者を目指す人だったりすると手のぬきどころが分からず、 本気で怒ってしまうのがまずいかもしれません。

でも、少しづつですが、学生たちを叱るときに、「学生たちをおいつめない」しかり方が出来るようになりました。

・・・といっても、これは「にいやん」の指導のたまものなのですが。

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10年来のつきあいになる教え子に、

「昔は、時折険しい顔をしていたけれど、最近はそういう顔を見せなくなった。以前は誰も寄せ付けないような顔をしていた。」

と言われた。

昔悲しい場面に出会うと、どうしても表情にでてしまっていて、タイのおっかさんからよく怒られた。

例えば、目の前に肉親から虐待を受けた子どもがいて、その子の進学について事務的な話を進める場に立ち会ったときなど、 僕は話を聞きながら顔を真っ赤にして怒りまくっていた。目の前の傷ついた子どもがいる現実が重すぎて、 そういう親がいることに耐えられなかったし、難病で苦しむ友人たちを目前にしたときに、とてもいたたまれない気分になっていたのだった。

またそれとは別に、それ以前から、僕の周辺には友人関係でもなぜか「自称AC」が集まっていて、「私ACなの。 かわいそうな生い立ちなの。」というビームが周囲に放出されていて、僕はそういうビームに「ああ、そうか、この子がこういう行動をとるのは、 こういう背景があるんだから許容しなくちゃ」と思っていた。でもこれははっきりいえば「哀れんで」いるわけで、 もっといえば自分を優位なものとしていたのだと今になってわかる。

それが時折、「この偽善者め」と自問自答する時に「人を寄せ付けない」表情へと顔をかえていたのだと思う。

そうやって険しい顔をしていても物事が改善しないことを僕は知り、悲しい出来事は、どんな顔をしようが悲しい出来事なのだとしり、 あかんことはたとえ相手がどんな状態であろうとも指摘しなくちゃいけないことってあるということを知った。

叱るときは徹底してしかるし、批判も徹底しなくちゃいけないという立場は変わらないけれど、 たぶん今は少し笑いながらできるようになったのだと思うわけです。

相手をバカにするのではく、こちらも誠心誠意をもって指摘することで生じる責任を引き受ける決意は変わらず、 肩の力が抜けて接することができるようになったのかもしれません。