中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』など
台風の風が強くなる。部屋の掃除などをすませ、読書に興ずる。
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中島らもの自伝的小説である本作には、中島らもファンならすでにエッセイに何度も登場してきた多くの話題が出てきて、「ああ、 あれはこういう文脈ででてきたのか」とわかって、楽しい。
が、その反面、中島らもが軽いタッチで書いていたいくつかのトピックの裏には、こんなディープな背景があったのだと感心しながら読む。 特に中島らも夫婦がモデルであろうと思われる「ラム」と「み」との破天荒な性生活(スワップとか、夫婦公認の不倫とか)を読みながら、 考えさせられるところも多い。
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この内容がなぜじんとくるのかというと、昨晩読んだ書籍が上野千鶴子(2002) 『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』平凡社だったからかもしれない。
いうまでもない上野千鶴子先生の書籍なのですが、
「婚姻は、自分の身体の性的使用権を排他的に相手に独占させるという契約。しかも終身契約ですね。第三者が使用した場合、 財産権の侵犯になる。でも、他人に自分の身体の使用権を完全に譲り渡すなんて、不気味ですよね。」
という下りがまたグッとくる。上野が兼ねてから指摘していた「家族」 という人間関係を近代法的に扱おうとする際にでてくる個人と家族の問題、そして「人間が所有される」という問題を「バンド・オブ・ザ・ナイト」にはしみじみと感じずにはいられないのだ。
そういえばタイ留学中に読んだ(2002)『ザ・フェミニズム』 筑摩書房でも結婚についてほぼ同様の定義があったのだが、その時も「ほー」と溜飲を下げたのだった。
『バンド・オヴ・ザ・ナイト』で描かれていた「ラム」と「み」の性生活も、こういう文脈で言えば、「たとえ夫婦であっても、 性生活は束縛されるのは重大な人権侵害だ」という「一穴一棒主義」(本当にこういう言い方でフェミ系の方は表現する) へのカウンターパンチなのだろう。
だがその一方で夫婦関係がこうした近代法に規定されることは問題ではあるのだが、例えばパートナーが自分の権利として、 他者とセックスを繰り返していたとしたらみんな納得できるのだろうか。
中島らも夫婦はその意味でもすごいなぁと思う。
この夫婦が僕は正直羨ましい。
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夫婦、恋人、友人といったあまたある人間関係の中で、人を恨んで生きることはとても哀しい。加えて人を恨んで、 恨んだことを心の奥底に隠して、生きていくことはとても難しい。
つらい思い出や恨んだ出来事を閉じこめておくには誰の心のハコも小さすぎる。「なかったこと」にしておいて、 事実から目をそらしたところで、ふとした拍子にハコが開いてしまい、哀しみが飛び出てしまう。
「恨む」「なかったことにする」『忘れて生きる」ということは、とても後ろ向きな生き方だと思う。
だから、怒りにふるえた拳を解いて、ただただ赦すしかないのだと思う。
そして赦すことにもまた多くのエネルギーが必要なのだが、たぶん僕はそれ以外の方法を知らない。そして、 赦そうとするプロセスがどれだけ僕を大きくしてくれたかを知る。
そんな不器用な生き方しか僕は知らないだけなんだけれど。