憎しみの所在 「見せかけ」で生きることをやめる

夏の間に読んだ本のレビューです。

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アルノ・グリューン[Arno Grun](2005)『人はなぜ憎しみを抱くのか』 集英社新書

夏の間に読んだ本でもっとも感銘を受けた本。

著者は精神分析学者でC.W.ミルズなどを引用しつつ、人間の心の中にある「憎しみ」が、個人的なレベルでどのように作用し、社会的なレベルでは極右運動・ 極左運動へと現れると解説を加える。

アルノは、自分の専門である精神医学の立場から根元的な人間関係である「親-子関係」が歪んだときに、 本来憎しみを受けるべき対象である親に憎しみが向かわないと記す。加えて、そうした本来「にくしむべき親」 へ同一化することが生存の手段となってしまったことが「憎しみの根元」となるのだと記す。

読みながらとにかく「ほうほう」という感じで、いろんなことを思い出す。

僕の知人にはなぜかACの人が多い。それは僕自身もACであることもあって、 同じような感じの人を近づけてしまうのかもしれないと思った。が、僕と彼女とは大きな差があって 「自分を許せるのは自分しかいないという事実に気づけたかどうかという差」なのだろう。

もちろん、これは「俺のほうが一歩先を進んでいる」なんて優位な立場に立っていることを誇示したいのではなく、「偶然」 だと思うのですが、自傷癖のあるひとがそうしなくなった変化について考えるとき、 自分を憎んでいるという事実に気づかない人が、なぜあんなにも他人を憎み、他人も憎しみの対象にしたのかもよく分かった。

以下はちょっと「心のひだにぐっときた」抜き書きです。本当はKちゃん、Kさん、Sどん、Yさん、 Aさんには直接送ろうかと思ったのですがやめておきます。よかったら、新書なんで買って読んでみてください。

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p.42
[自分が傷つけられたことを認めない人は]真実を語り、困難を問題にする人には、従いません。そういった人に不安を感じるからです。 真実を知るのが怖いのです。

p.45
見せかけばかりで生きている人間は、他人に認められようとして、どんなことでもします。人間関係は、 すべてこのための場になってしまっています。そこには本当の人間関係などなくて、 いかにも誠実そうな自分の見せかけを他人に納得させなければならないのです。他人に対しても自分自身にたいしても、 本当の自分とは正反対の姿が本当なのだと説得せずにいられません。偉くて、権力があって、何事もよく分かっていて、 強くて自信あふれる人物に見せかけるのです。劣等感を隠すために、強くて自信あふれる人物の役割を演じる必要があるのです。 しかし誰にも気づかれてはなりません。何よりも、自分自身が気づいてはならないのです。

p.63
そうかもしれません。しかし基本にあるのは、人を寄せ付けないことです。自分が求めてやまないことに気づきません。 自分が求める者をパートナーが与えてくれないことに急に気づくと、他のパートナーを探します。男性は、また同じように冷たい女性を捜して、 多大な労力と時間をかけて愛されよう、振り向いてもらおうと努めます。女性もまったく同じです。 とんでもない仕打ちをする相手の愛を得ようとして、危うく自殺しかけた女性や男性の話は山ほどあります。
さて、興味深いのはここからです。このような男性や女性は、あこがれてやまなかった愛情やぬくもりを与えてくれる人とようやく出会っても、 おもしろくない、退屈だとして、その人から去ってしまいます。彼らは本当の愛情に耐えられないのです。これほど恐ろしいことが、 自らを裏切り、憎むようになるプロセスの中に組み込まれているのです。自分には愛されるだけの価値がないと感じ、 愛情をもって接してくる人がいるとそれに耐えられず、退屈な男性だとか、おもしろくない女性だということになります。

p.77
-もう一度正確にお聞きしたいのですが、自分の中に潜む憎しみとは何ですか?「自分の中に対する憎しみ」ですか?
ええ、そう言っていいでしょう。自分自身が犠牲者となったこと、そして自分の中の犠牲者を、そうと認めることが許されないこと、 これにたいする憎しみです。そこで、他人を犠牲にしようとするのです。こうすれば、自分が犠牲者だったことは認めずに済むからです。 自分が犠牲者だったと認めるためには、自分の親の本当の姿や、自分が受けた仕打ちをありのまま直視しなければなりません。 そんなことはできない。こうして悪循環に陥るのです。

p.142
責任を引き受けるとは、もともと意図したわけではないのに他の人に痛みや苦しみを与えていると認めることです。