だらだら

ひさしぶりに自宅で休日を過ごす。

今日は広島に原爆が落とされて60年目となる年。毎年の事ながら、いつものように黙祷して8:15分を過ごす。今日の空も美しく、暑い一日になるそうで、60年前の広島もこうだったのかなぁと思う。

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「偽善者」を自称する自分は、自分でもなぜこんなに戦争やら、貧困やらにこだわるんだろうかと思う。「何が楽しくて、借金を重ねて博士までいくんだ」と周囲から言われて返答に窮する事もたくさんあった。

高校時代に聴いていたタイマーズの歌詞にあったような「世界の平和を叫ぶギゼンシャ」が嫌いだったのに、僕は同じように世界の平和を叫ぶだけの同じようにギゼンシャになっているのだなぁと思うときがある。ハイウェイをぶっ飛ばすだけの猛烈な「ギゼンシャ・ギゼンシャ」に成り下がってしまったのではないだろうかと思う。

自分の生い立ちにもちろん関係しているとは思う。しかし、自分のこうした興味を自分の生い立ちと切り離して適切に表現できずにいるのも事実で、そうした個人的な経験は重要な動機ではあるのだけれど切り離して説明することはとても難しい。

それは研究者の立場としてはきわめて「あかん」説明だと思う。

もし、自分の生い立ちをベースにしてしか、平和も貧困も語れないのだとしたら、すべての社会科学は同じ立場の人としか分かり合えないし、同じ立場の人を探すだけの、傷のなめ合いだ。

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少なからず、「文学」に関わっていることの意味はこういうところにあるのだと思う。確か芹沢さんだったか、福田一也をはじめとした日本の文芸評論家は政治的発言を繰り返すのか、というきわめて洗練された評論を行っていた。

こう考えてみて思うのは、文芸評論の世界では「互いに分かり合える」部分を(それ自体は時代によって多少なりの変化は経ているけれども)共有していることを前提としているからなのではないかと思う。

まさに「政治」の話題に必要なのは、自分の体験から離れた理論ではなく、むしろ自分の体験の中でしか理解できないこと、だからだ。

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そうしたことを考えたときに、「広島」が語られる時に今日では「ヒロシマ」として表記されることなどは、僕には大変興味深い。ナガサキもオキナワも。

人間がいなくなった広島の街は、人間の住む「広島」という空間から、「ヒロシマ」という原爆投下地点へと変わりその街には人間がいなくなった。そもそも、原爆を落とす段階で、広島の街は「ヒロシマ」という原爆投下のX地点の一つでしかなくなってしまったのだろうと思う。

原爆は僕らの世界から消えない。たぶんこれからも消えない。「抑止力」なんて効果がある以上消えるわけはない。北朝鮮が核を持ち続けるように、アメリカも核を持ち続けるだろう。

人間が暮らしている空間が、単なる原爆投下地点の一つとなり、そこに住む人々の息吹は広島がヒロシマになったように、「ニンゲン」という無機質なものに還元されてしまうのだろう。これは単に日本語の表記の問題ではない。ヒロシマ、ナガサキ、オキナワという表記の背後にはある種の無機質性が感じられてならない。

こうした意味では、社会科学者は文学を超えられないなぁと思ってしまう。ヒロシマと呼んでいるX地点が、広島という人々が生活していた(いる)空間であることを、社会科学ではうまく説明ができない。というよりも、社会科学はそもそも人々の「意識を高める」なんて目的としていないからだ。

優秀な社会科学者が必ずしも社会に対して自らの問題意識を上手く説明できず、問題を問題として提示することもできないということはよくある。反証可能な科学を提示することと、互いの共感を下に話をすることができる能力の間には歴然とした差があるからだ。

ハーバマスに惹かれる理由は、そのあたりにあるのだとはわかってはいる。「理解できないこと」には冷酷になれる無機質な存在の人間が「理解しあう」ための道をどうつければいいのだろうか、それを僕は今は考える。

・・・そんなこんなで、研究者ではなく文学者という途を目指せばよかったと、思っていたりしています。

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と、このように考えていた今日の一日は、結構「だらだら」な一日だったりする。

釜山で大量に買ってきたジャズのCDをかけながら、午前中は車を洗い、洗濯機を3回まわす。青空に似合うのは、白いシーツだというコマーシャルが以前あったが、まさにそういう気分。

真っ昼間からなんなんだけれど、これまた緑美しいゴーヤと豆腐でチャンプルを作り、焼酎の封を切る。加えて、ウクレレを弾きながらだらだらと過ごし、徒然草を読む。「だらだら」と青空とウクレレと徒然草はよく似合うなぁと思う。

この「だらだら」という時間を過ごすのが本当に久しぶりすぎて、なんだかこれもまた泣きたくなるような優しい空間だ。

誰のエッセイだったろうか「泣きたくなるぐらい真っ黄色な目玉焼きの黄身」という表現があったのだが、緑のゴーヤと青空も同じぐらい泣きたくなるものだなぁと思ったり。

「ああ、平和だなぁ」ということではなく、こんな「だらだら」とした一日に立ち止まって考えることができることが、恵みなのだと改めて思うのだ。