江國香織版『東京タワー』
中原教会でミサ。その後自宅へ戻り処理すべき作業を黙々とこなす。
夕方になり、水性ペンを使い切ってしまったため、文房具屋と本屋にでかける。そこで昨日気になった江國香織の『東京タワー』をみかけ、立ち読みする。ぱらぱらとめくって、昨日観た映画とまるで違う結末だと言うことがわかる。驚いて、ついつい衝動買いしてしまい、作業そっちのけでドトールで読み終える。
読み終えて再度「昨日観た映画とはまるで結論も話運びも違う」事を確認する。「昨日観た映画はいったいなんなんだったんだー」。映画化された文学作品が必ずしも原作に忠実でないことは別に珍しいことではないし、多少のストーリーの変更もやむえないと思うが、ここまでずれているのもそうはないだろう。
江國の原作では、映画では離婚した黒木瞳がパリまでおっかけることになっているが、原作ではパリもでてこないし、妻も離婚しない。主人公は妻の経営するショップに就職することにして、妻は夫との結婚を解消しない。不倫している状態をパートナーをそのまま主人公がうけいれるという半ば荒廃的な世界が続く。
江國の原作では、こうした社会的な制約を超えたところに「恋(なんて呼ぶもの)の一つの形」があるという形で終わる。これならばこれで一つの文学的なテーマになるが、映画版みたいに妻が離婚し「自由の身になって」パリに留学する主人公のところへ向かう、という設定は、江國の佳作を「出来損ないの物語」へと変えてしまっている。「離婚した女性」として誰かと法的に結婚できる状態になった女性としかラブストーリーは成り立たないとするならば、さんざんトレーラーで使われた「恋はするものじゃなく、おちるもの」なんていうフレーズが当てはまらないと思うんだけれどなぁ。
人間の恋や愛はもっともっと深く、そして残酷だ。江國の原作ではそれが丁寧に描かれていたけれど、映画版ではまったくそれが表現されてはいなかった。こういう形で映画化されることは、この原作にとっては不幸だ。