「跡」の国薩摩

夕方前に無事に退院して帰宅。いそぎ引っ越しの準備を進める。

深夜 有る程度荷造りが終わり、一段落ついたところでチャットにはいったところ鹿児島新報廃刊のニュースがとどく。朝日新聞の記事の他、鹿児島新報のWebサイトでも詳細が掲載されたようだ。

鹿児島新報が創刊されるまで、鹿児島県内のメディアはただ1紙、南日本新聞が牛耳っていた。それに業を煮やした地元財界人のバックアップをうけ南日本新聞社の内部から出て行った記者達によって鹿児島新報は創刊された。鹿児島新報サイドの発表では当初約束を取り付けていた鹿児島県内の大手企業岩崎産業グループによる支援がえられなかったことが廃刊の大きな原因になっているという。鹿児島新報の関係者はさぞ悔しいことだったろうと推察する。何よりも鹿児島県内に一紙しかないことが生み出す弊害を乗り越えようとして設立された新聞が、鹿児島の大手企業ただ1社の(それも会長ただひとりの)意向で潰れてしまうのだから。

象徴的だと思ったのは、 鹿児島新報のWebサイトではデジタル入稿、カラー印刷といった設備投資ができなかったことを廃刊の理由の一つにしていることだ。一見当たり前に見えるこの発言は実は大切なことを示唆しているように思う。インターネットが普及した時代の新聞は、まるでWebページのようにデジタル化とカラー化が進んでいると言うことで、みてくれのいい新聞が読者には受け入れられるようになったことの表れであるようにも思う。みてくれを気にした新聞が生み出す弊害をしっていながらだれも止めることもできなかった。

鹿児島市在住の折(鹿児島県内でも鹿児島新報は地方ではほとんど入手することができなかった)、鹿児島新報を手にしてその紙面の薄さに大変驚いた。でも今になってみればだけれど、インターネットのように手軽に、適度に見やすく、適度に情報の詰まった出来合いの新聞に流れていって、作り手の鼓動を感じながら新聞をそだてようという意志がなかった。そういう自分も含めて、鹿児島新報を育てる土壌がなかったのだと気づく。先月廃刊になった『噂の真相』誌には、いつも裏表紙の広告をヴィレッジセンターが出していたが、『追悼!噂の眞相』でこういった雑誌を育てる必要があり、だからこそ広告を出し続けたのだとヴィレッジセンターの中村満社長が告白している。こういった気概もまた鹿児島にはなかったものだ。

かつて師匠が僕に「鹿児島は『○○跡』と『○○跡』の石碑が多い街になってしまった」と石橋移転問題のさなかにこぼしたことがあった。そしてまた、鹿児島は新に一つの新聞を廃刊「させてしまった」。そしていつか「鹿児島には新聞が二つあった時代があってね・・・」と人口に膾炙することになるのだろうか。(5/4)