空の民と日本兵

重ねて10年ほど前の文章です。こちらは当時の文芸同人誌に掲載していただきました。

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 タイの最高峰ドイ・イタンノンから一〇〇キロメートルほど北方にあるモン族の村で生活をするようになり一年が過ぎた。

 モンとは自らの言葉であるモン語では「自由」を意味するが、タイ語で「空の民」を意味する「チャオ・ファー」と呼ばれることも多い。その名の通り、筆者が通うモン族の村は標高一四〇〇メートルの高さにある。この村で繰り返される毎日の生活は大変質素で、日が昇り、日が沈むそのリズムに合わせて村人も日々の生活も緩やかに営なまれている。村が全体が一日一日を呼吸しているかのように時が流れていく。森に囲まれたこの村では、木々のざわめきは人々の声よりも大きく、夜になると星の光の方が家の灯よりも目につく。この自然豊かな村々での生活はその自然の豊かさに感謝することが多いのはもちろん、何よりもこの山中で過ごす人々による自然への敬愛には心打たれることが今なお多い。

 この豊かな自然の中で生きる彼らは、また同時にタイという国家の中で生きる少数民族ゆえの苦しみを背負ってもいる。天からの恵みは多いが、希望する生活を送るには決して楽ではない。かつて日本が経験したように近代化の波はこの辺境の地にも押し寄せ、教育、言語、現金収入の途、国籍取得など問題点を数え上げるときりがない。しかしそれでもモン族伝統の生活を送る彼らの笑顔は総じて大変豊かだ。たくましく、したたかな彼らの生活は「生きる」ということはこんなにも真摯な行為であったのかと、再度深い感動を思い出す。

 そんな村での生活を続けている最中、顔なじみになった若い村人から意外な事実を告げられた。この村で筆者は初めての日本人ではなく、「第二の日本人」であるというのだ。詳細は次の通りである。

「この村からチェンマイへと続く幹線道路は、かつてビルマから退却してきた日本兵が通った退却路の一つで、この村の幹線道路をさらに下がったところにあるインタノン山登頂口となるバンガード地区には日本軍の兵站病院があり、負傷兵が必死の思いでこの道を通った。幹線道路添いにも多くの土まんじゅうがならんでいた。」(二〇〇四年一月十五日 H村にて採録) この話はの祖父母から聞いたとその若い村人は教えてくれた。

 タイ国内で少数民族として差別を受け、タイ語の読み書きができない老人達もまた第二次世界大戦の記憶を持っている。代々、村長を務める家系の老人は、インタノン周辺から現在の村に移動するときに「日本に原爆が落ち、戦争に負けた」というイラスト入りのビラが空から降ってきたことを記憶していた。こうした第二次世界大戦の話は、山地で暮らす彼らにはあまり現実味のある話ではなかったようだ。日本という国がどこにあり、どうして戦争をしているかはわからなかったが、とにかく飛行機の爆音とたまに見聞するチェンマイからのニュースで日本という国が戦争に負けたことだけはわかったのだという。

 だが、ビラがまかれてから徐々に日本兵が村を通るようになって、村人は事の詳細を少しづつ知るようになる。食料のなかった日本兵がライフルと豚一頭を交換していったという記憶、日本兵は十人ほどのグループで退却したという記憶、兵隊の多くはすでに交換できるものをそれ以前に手放していることが多かったという記憶、そしてそうした何も持たない日本兵に村人が炊き出しをしたという記憶。またこの村から南方二〇キロメートルのカレン族の村のほど近くに日本の戦闘機が墜落し、その残骸がまだ残っていると言うことを教えてくれた。こうした断片的な記憶は、いつしか物語として紡ぎ出され、村の中でフォークロア(伝承)として伝えられることになる。それから六〇年近い歳月を超えてもこの小さな村の中でずっと語りつがれている。

 隣村の老婆は次のように語る。

 「食事時に村の入口に若い日本兵がやってきたんだ。かわいそうに思い、いつもと同じように簡単な食事を用意しようとしたところ、その日本兵はそれを丁寧に断ったんだ。彼は鍬を借りに来ただけだったんだ。行き倒れになった兵士の墓土を掘るためだといっていた。」(二〇〇四年一月二十三日 P村にて採録)

 日本軍のインパール作戦敗走ルートのほぼ末端にあるこの村の周辺には、かつて日本兵が通過したという物的な証拠は何も残っていない。かつて土まんじゅうがあった場所も度重なる道路の改修工事の中で誰もわからなくなっている。年老いた人々のうちに残っていた記憶も、それを伝える老人が鬼籍にはいることでまた失われていた。

 幸いだったのは、このような記憶がこの場所を通った日本兵の記憶のうちにも残っていた点である。村を通過して日本兵がたどり着いたバンガードの兵站病院では、多くの日本兵が命を救われた。バンガードで救われた師団が佐賀県出身者を中心に編成されていたことから、帰還した兵士たちが中心となり、現在バンガード高校の学生を毎年一人ずつ佐賀県の九州龍谷短期大学に留学させるための奨学金を渡している。戦後、兵站病院は高校の校舎として利用されたのだった。すでにバンガードからの留学生の数は十三人に及び、モン族の村からもバンガード高校に進学した三人の青年が短大を終了した。彼らは現在日系企業で通訳として働いているほか、またバンガード高校で日本語の先生として教鞭を執っている。

 かつて日本兵が通った道をソンテウと呼ばれる乗り合いバスにゆられながらゆっくりと下っていく。空の民の村から、緑のトンネルをぬけてバンガードに到着するころにはすでに三時間が経過している。都市部へでるソンテウへの乗り換えのため一旦市場で降りて、降りてきたばかりのモン族の村を眺めるが雲の彼方に隠れる空の民の村はもう見えない。日本兵がかつて通った道の記憶は、空の民と、この道を通過した日本兵だけが共有しており、自由の民と日本兵の交流もそっと雲の中に消えてしまったのかもしれない。