映画『のだめカンタービレ』と映画というメディア/トロンボーンの配置

諸々の事情でしばらくDVDで映画三昧の日々が続いていたのだが、若干自由に体が動くようになり、やたらとテレビで告知がなされている「のだめカンタービレ」を観てきた。
ストーリー自体は最近結末までたどり着いた漫画のストーリーと変わらないので、どれだけあの漫画の世界が映画の中で再解釈されるのかが注目するところ。結論としては、「なぜわざわざ映画にする必要があるのかわからない」という出来で、確かに面白いのだけれども映画館でこれを観るモチベーションはさほどあがらないと思う。ビスタビジョンをたっぷりつかって表現する必要もなければドルビーの音質で聞かせるべきサウンドもない。
単にテレビの続編を映画でやっているだけというだけの映画で、「面白いのだが、映画である必要があったのか」疑問なレベル。たぶん現在の家庭に普及しているシネマサイズの液晶テレビでみても大差ないと思う。これは苦言と言うよりも、逆の立場から言えばテレビ版の「のだめ」が、映画と同じだけの高いクオリティの作り方をしていたからこういう話なのだろう。NHKの『坂の上の雲』のように半期一度ぐらいの特番で作って、テレビで放映しても良かったのではないか。
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「映画は死んだ」というのは内田樹先生の言葉だっただろうか。手元に現在その書籍がないので、意図はそれるかもしれないが、僕なりに深く思うところがあった。
かつて映画は、映画館というコミュニケーションの場に皆が集まって一つの作品を観るという空間として形成されていた。今でも映画好きの間で語り継がれる池袋の芸術座や早稲田のACTのように少し匂いのするじめっとした映画館のぼろぼろのスプリングシートに座り、会場の客全員で一つの物語を受け止める喜び(そう、それは確かに「喜び」としか表現できない娯楽だった時代があった)を共有するような時代はもうやってこない。少なからず僕の中では「面白い映画」の記憶は、映画館の暗闇とあの独特の雰囲気とセットになっている。
でもどうなんだろう、おそらく作り手もスピンアウトという都合のよい言葉で、テレビの延長上で映画の作品を作るけれども、映画というメディアで作らなくてはいけない理由が、興行収入以外に存在しないのだとしたらそれは少し悲しいと思う。今回の作品が「どうしても映画でなくてはならない理由」がどこにあったのだろうか。見落としている部分もあると思うので、ご存じの方がいたらぜひご教示ください。
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とはいえテレビ放映版程度には今回の「のだめ」は面白かったとは思う。テレビ版がなかなか好きだった僕としてはさほど失望はせず、支払った代金分は回収することが出来たと思う。
ささいなことで気になったのは、今回の映画ではフランスのオケの特殊事情として(漫画版でも)バソンとファゴットの違いが解説されていたのだが、トロンボーンも実は微妙に配慮がされていたように思う。実はシングルロータリーのオープンラップトロンボーンが3rdのポジションに座っていた。ひょっとして、、、バソンを配置するオケであれば、古いフランスのオケでは3rdにバストロンボーンを配置しなかったので、映画の中のトロンボーンセクションの配置でも同じように3rdにテナーバスを配置したのかなぁとか思う。いや、もちろんシングルロータリーのバストロという可能性はあるが。
オケの世界では、例えばドイツであるとトランペットはロータリーが主流だったり、トロンボーンはドイツ管が主流だったりと微妙な違いがある。たかがトロンボーン、されどトロンボーンで、この楽器を愛する僕としてはのだめのスタッフさんがそこまでこだわってオケの配置をしたのだとしたらなんかすごく嬉しい。
これも詳細を知っている方、ぜひ教えてください。