富山三田会

富山三田会に出席した。これまでタイ在住時に盤谷三田会に参加したことはあったのだが、それから8年ぶりの参加。僕自身中学・高校の同窓会には出たことがないし、また大学の同窓会にも出なくなり、あとは鹿児島大学の自主研究会のメンバーで集まる程度の付き合いしかもう残っていない。中学・高校の頃の中のよいメンバーとは個別に連絡は取りあっているのだが、この年齢まで生きると先方にも事情があり、自然と交流が絶えてしまう。高校から仲の良かった友人の一人は今は同じように大学の教員をしているのだが、立場の違いもあるのでもう連絡をとることもない。仲のよかった友人達ともう一度会いたいと思う反面、年月を経てそれぞれの政治的な立場も変わっているし、先方は先方で一生懸命生きているのだと思うし僕とは会いたくないのだろうなとも思う。

残念ではあるがそれが歳をとるということなのだろう。元気でいてくれたらそれでいいのだが。

慶應三田会については、僕の場合は大学院からの慶應生、しかも日吉・三田を知らない(いや三田は語学学校に通っていた)ので場違い感は相当にある。だが、それでも8年は籍があったので、標準的な学部卒業生、修士終了生よりも慶應の在籍年数は長く、三田会に参加してもよいかな、とは思えるようになってきた。

何よりも慶應三田会は集まったメンバーがまずそれぞれに面識がない(学生時代に交流がない)ことが前提になっており、そこが気が楽である。これが中学・高校の同窓会のように学生時代の顔見知りであれば学生時代の黒歴史を嫌でも思い出さなくてはならず、足が遠のいていただろう。といっても、昨年開催した大学時代のゼミの集まりでは、今でも先輩方に囲まれて「下っ端」扱いで、それはそれであの頃を思い出して楽しいことではあるのだが。

慶應の三田会については、宗教学者の島田裕巳先生が考察をまとめている。それはある種宗教組織のように外部からは見えるのだという指摘はもっともだと思う。とはいえ、前任校の高専では同窓会が十分に機能していなかったのは学生にとっては残念なことだと思っていたので、参考にする点も多くあるように思う。島田先生が指摘するとおりメリット・デメリットももちろんあり、全面的に肯定するわけでもないのだが同じ大学の空気を吸って過ごしていた人たちが集まるのは悪くないな、と思った。そして、慶應の在学時に感じていた違和感の一方で、「違和感を感じていた慶應生」が多く参加していることも楽しい。盤谷三田会では「慶應卒の慶應嫌い」が一定数いることも面白かった。

慶應を離れたのはもう17年前になるが、同じような空間で勉強をしていた人との会話に初心を思い出せるきっかけをもらえるのはありがたい。

初めての土地で、どのように地域に溶け込めばよいのかわからないが、ともかく使える手段は全て使って、話をしてみることは大事だと思う。今回もいろんな立場の方とお話しができて非常に有意義だった。決して「成功者」だけが集まるような会ではないので。