弱いネットワークの形成について

つい最近、若い知人の訃報に接した。いろんな感情がざわめき、上手く言葉にできずにいるが、このざわざわした感じを少しでも言葉にしなきゃとも思い無理して言語化しようとしている。

そんな折、宮台先生のツイートで知った菅野久美子(2020)『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに』角川新書、読了する。著者菅野は、決して少ない数ではなくなった無縁仏をめぐる話をきっかけに日本における家族の在り方、そして死に方について記す。諸事情で親を捨てたい子ども、家族と疎遠になり死亡発見が遅れる方々、パートナーの死や退職により自分を管理することをあきらめセルフネグレクトによって命の危険に遭っている方、といった人間が最後に向かえるイベント「死」によって帰結するまでの話が多く書かれている。そしてその在り方が、現代の日本の特異な状況を背景として描く。一つ一つのケースが実に陰惨で頁を進む手が止まる。

著者は、これらのケースで陰惨さを過度に強調しているのではない。むしろ遠慮して書いてもこの陰惨さが現れてしまうというのが本音だろう。

かつてセーフティーネットとして存在していた家族のありようが変わり、人生のエンディングの迎え方が「これまで」と「こんな形に」変わっていくことが現実化していくのだと改めて驚く。この手の書籍はこれまでも多く読んできたし、知らない情報ではなかった。しかしながら、今回はこうした状況が生まれてきた社会の変遷にもスポットが当てられ、日本では社会的孤立が進む中で、特に孤独死が増え、また死者の取扱が変化したのだと指摘する。

僕自身は、自分が死んだときには適当に散骨してくれればよいと思っているし、墓など必要と思わないタイプなので「死のあとのあれこれ」については一通りの結論を出していた。タイで生活をしていたとき、何人かの方の火葬にご一緒する機会があったのだが、タイの仏教での火葬では、お骨を焼いてざっと砕き、粉のようにしていたのをみながら、こういう扱いでいいのか、とか思った。映画『星の旅人達』でも息子の骨をさんサンティアゴの巡礼路にまいて歩く父の姿が登場したが、そんな形もアリなんだろうと思う。

だが、「死ぬまでのあれこれ(病院に運んでもらったり、自室で倒れた自分を発見してもらったり)」と「死んでから周囲の人に忘れてもらうまでのあれこれ(財産の処理や飼い猫のケアなど)」についてはまた改めて考えなきゃいけないな、と思った。描写は控えるが、死後の自分の体のせいで周囲の方々に迷惑をかけるわけにはいかないので、とも。

著者は、次のようにこの書籍を締める。

「結論として、私たちは死後も含めて、やはり一人で完結することはできないし、誰かに寄りかかって最期を迎える。そして、自らが心を開けば、血のつながりはなくてもそれに応えてくれる存在がどこかにいる。家族が息苦しいなら、あなたや私を支えてくれる存在は、決して血のつながりのある者である必要はないだろう。そして、いつか自分が他者を支えるほうに回るかもしれない。目には見えないが、私たちは網の目のように一人一人がお互いにもたれかかったり、支えたりしながら成り立っている。」

これが理想的な結論であるとは思う。だが一方で、このとおりにはなかなか上手くいかないだろうな、とも思う。少なくとも時期総理大臣の筆頭候補である管氏が描く「自助・共助」を「公助」よりも優先させ、国民自らの自己責任をまず問うような社会、また管氏の述べるようなこういう社会保障の在り方が支持される社会の中では実現不可能ではないか、とも思う。いや、「だから管・安部、自民党はダメだ」という短絡的な政権批判をしたいわけではない。これは日本社会の病理なのだ。

本書で途中紹介されるマーク・グラノヴェッター「弱い靱帯の強み」理論は、キャリアコンサルティング業界でもしばしば言われる理論だ。職場・家族を中心とした強靱なネットワークよりも、職を得る際などには、実は弱いネットワークが有効だとするものだ(このあたりクランボルツの理論とも似ている)。生存に関係するあれこれについても、同様の弱い靱帯のネットワークが有効に機能するという指摘は、非常に納得できる。

w/コロナの世界で、私たちはますます孤立しがちになり、オンライン授業/会議は「強いネットワーク」を遠隔システムで代替しているだけにすぎない。この状況下で、どのようにして近隣の「弱いネットワーク」を構築していくべきなのだろうか。