十六夜

先日音楽仲間と「十六夜」の話をした。

「完璧な正円」が持つことのできない美しさを自然界は持っており、古人はそれを十六夜として気づけたのだということなど。この歳になっても自分には到達できない美しい世界のことなどを考える。

残念ながら、今の僕の視力では満月と十六夜の区別など並べてもわからない。データ(理論)として知る「十六夜」の美しさを愛でるという浅はかな、そういう自分を自嘲する。

思えば、学生が目で見たもの、肌でかんじたものの違和感を「違和感」として、そのまま学生が僕に伝えたことを受け止められていたのか、と問う。学生の方が僕には及ばない正確な視点で、より鋭い目で世の中を見ていたことも多かったのではないか。

心に感じた違和感を違和感として主張するということは(自分の体験も含め)、決して生き易くはない選択であることが多い。ただ、学校の中ではなるべくそういった違和感に耳を傾けるべきであるし、学生が心のどこかに違和感を持っていてもったときにそれを汲み取れる教員だったか(そして組織だったのか)と自省する。

今日の午前中、卒業生がわざわざ会いに来てくれた。

この学校では僕は、ショボイ教員でしたが、これからはこういうオシャレなグッズも使いこなして、日々を生きていきます。

何よりもこの17年間の月日で、学生と付き合いから多くのものをいただいたなぁ、と思います。

本当にありがとう。

主の平和。