劇団どくんご宮崎公演『ただちに犬Deluxe』

友人のお誘いで劇団どくんご『ただちに犬Deluxe』を観る。

その友人とは、かくいう外山恒一氏なのだが、彼が一押しでおすすめする劇団だけあって、とにかくスバラシイ。趣味の悪い(<おっと失礼!でも事実だから謝ったりはしない)劇団はこの地域でもまわってくるのだが、こうした面白い劇団はなかなか宮崎には来ないのでとても楽しみにしていた。あの外山氏がほめちぎり、裏方として参加するほどの熱の入れようで、実際にその期待は裏切られることはなかった。

まったく脈絡のない、コミュニケーションが成り立っているように見えない殺人事件(?)をめぐる会話のやりとりからスタートする物語は、フーガのように変調・変拍子しながら何度もくり返される。だが冒頭提示のテーマにも意味はなく、くり返される変調・変拍子のストーリーにもやはり意味はなく、意味のない会話の羅列に観客は物語の進行を確かめる術はない。唯一物語の進行を観客に伝えるものは劇の進行に合わせて一つ、二つと舞台上から姿を消すこれまた意味なく展示された小道具の類である。そうやって舞台の進行に合わせて姿を消す洗濯ばさみでつるされたスナック菓子や人形、造花の類にもおそらく意味はない。

殺人事件を(フーガ的な)主題としてくり返される変調した物語の間に出演者5人のモノローグが入る。これは一つ一つの物語ではあるが、これもまたありふれた意味を観衆に与えるものではない。これらのモノローグもまた一人、また一人と変調しつつつながっていく。

そして再びくり返される変調の物語。ここでもやはり意味はない。同じ箇所をぐるぐる回るように見えた物語はレコードの針のように実はゆっくりと収束に進む。変調と収束を続けた物語はやがて爆発する。

今回の劇を観ながら漠然と思ったのは、コミュニケーションの不和と融合の瞬間は、かくのごとく「理解したつもり」の積み重ねで、それはスパイラル的に同じところをぐるぐる回っているように見えながらも進むようなものなのだろうということだ。私たちの日常はきっとそれぞれがそれぞれにとっては大切な話題で、でも他人から見れば実にどうでもよい話題の交換で成り立っている。端からは成り立たないように見えていても、だ。そしてこうした文章を書く僕自身のことばもきっと劇団どくんごの構成・演出グループからは「何を言っているんだこいつ」と思われながらもコミュニケーションの一形態としてちゃんと世の中に流通していく。たぶん世界は確立された意味の世界の接続によって成り立つのではなく、確立されないまま・理解されないままの意味が無理矢理接続される(すなわちそれを「理解したい」という出演者・観客の優しさのベクトルで)ことでつながっていくのだろう。

寒空の中スバラシイパフォーマンスを見せて下さった出演者・スタッフの皆様に拍手を送りことはもちろんだが、役者時折旬のカルガリ博士(by寺山修司)を連想させるような、しかもそれでいて非常に演技力の高いパフォーマンス、人形譚を奇抜な服装と鹿児島弁とで熱演した五月うか(<話中に不思議と可愛く見えるのは役者の力だろう)には特に賛辞を送りたい。

また実は今回の公演でもっとも苦労を強いられたのは、急に寒くなった宮崎の寒空の中で毛布を共有して寒さをしのいだ観客ではなかったかと思う。観客にも最大級の賛辞を。

宮崎ではあと11/6(金)に綾町グローバルヴィレッジ綾特設テント劇場にて開催される。断言するが宮崎ではこんな面白い舞台は滅多にない。ぜひみなさんいって下さい。