今日は満月

今日は満月でも、薄雲がかかった「おぼろ月」でして、ほのかな薄い光の中に満月がうかんでいるわけで、とっても素敵で、 泣きたいぐらい素敵でどうかなっちゃいそうです。

僕はどうやら、人間が社会の中で生きていくために必要な能力のいくつかが大きく欠けているようで、最後のツメが甘く、 「最後の最後で裏切られる」というパターンを多く踏襲しています。

典型的なだまされやすい人間なのだと思います。

月を眺めながら、「ああ、こんな綺麗な月なら、ウサギが餅ついていたと思ってもしょうがない」なんて思います。 オタクなおいらとしては、 月にはLisaとかSE30がごろごろころがっているとか幻想を抱いてもしょうがないぐらい、 今夜の月は幻想的で綺麗です。

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昔、とあるプロテスタント崩れさんに絡まれたことがありました。「君はイエスの復活を信じるのか。俺はそれが信じられないから、 洗礼を受けなかった」と。加えて「科学者として、イエスの復活なんていう非科学的なものを信じるのか」と続き、 「おまえは研究者のくせになぜそういう非科学的なものを信じるのか」となじられたことも。今思えば、それが彼のコンプレックスの表現だったのだとわかりますが。

僕は正直なところ、イエスが復活したかどうか、ということについて明確な回答を持ち得ていません。 教会でミサの前に一心不乱に祈る信者さんを見ては、「こんなにイエスさんを信じられるなんて、どうかしているんじゃないだろうか」 と思ったりもします。ヨブ記、ヨナ記を例にいうまでもなく、非科学的な記述が記されている聖書を信じるのか、と理不尽に思ったりします。

でも、僕はその一方でそういう信者さんを羨ましく思ったりします。僕は残念ながら、イエスさんについても、自分の研究についても、 絶対的な自信を持てずにいるのです。

ただ思うのは、人間は「信じたい」という願望がある動物なのだということで、ある宗教を信じたいと思い、両親/恋人/彼氏/ 彼女を信じたいと思い、月にウサギがいることを信じたい。そんな動物なのだということです。

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で、なぜかオウム真理教の林郁夫の手記(林郁夫(1998) 『オウムと私』 文藝春秋) を思い出しました。

オウムに入信した若者について批判することは簡単ですが、 オウムに入信してあのような行動を起こした先にしか彼らの涅槃を見つけられなかったことを否定することもとうてい出来そうにありません。

サリンをまいた元医者の信者林郁夫が「人を殺すために医者になったのではない」と思いながらも、サリンの袋を傘でつついたそうです。 僕は彼らを他人とは思えません。林の告白は、 裁判中の出版で反省の態度を表すことで情状酌量を弁護側が求める根拠となったという面があったため、 決してすべてを鵜呑みにしてはいけないとは思いますが、でも心の中で自分の世俗的な価値観を超えたところにある、 宗教上の望ましい世界を求めて葛藤の中でサリンのつまったビニール袋をつついたという話はとてもリアリティがあります。

林郁夫は、イエスの復活を心から信じることができないまま信仰を続けている僕のように、「ポアする」 ことが麻原のいう理想郷の実現となることを信じられないまま傘でビニールを破ったのではないかと、思うのです。

オウムがサリンをまいたことで多くの人が亡くなったことについて、もちろんその手段について僕は「犯罪者」 集団としてのオウムを憎みます。ですが、同時にオウムに入信した人々が実は弱い人々であったことも重要です。

世の中には「人を殺さない」というだけで、世の中には「私が幸せになれば、後はどうなってもよい」という人々がたくさんいます。 「勝ち組」なんて言葉で表現される集団などは特にそういう傾向があるのかもしれません。

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話がそれました(T-T)。

僕とお月さんとの関係は、そのままなくなった祖父と僕との関係だったりします。 今日の満月はいろんなことを思いおこさせるとても美しい月です。じいさんは僕ほど煩悩のある人間ではないし、

「月にはウサギ(の格好をしたおねえさん)がいる」

なんて思わないでしょうが、いろんな想像をもちのんびり月を眺める一日は、「非科学的」ですがさほど悪くはないと思っています。 それは

「月に幻想抱くヒマはほっといて、こすっからい世の中を生きて『勝ち組』になる」

という生き方よりも、肌に合っているのだろうと思うからです。 月にウサギがいると思うぐらいの余裕ある生活がしたい今日このごろです。