音楽界のジェンダー観(まちおん連載24回目)

今回のお題は「惚れた女と二人きり、流したいアルバム」とのこと。
今回の「惚れた女と二人きり、流したいアルバム」というお題に対して、やっぱり「書けない」ということにして、別のお題にしても許されると思う。・・・のだが、でも「まちおん」の中で一度どうしても書いておきたかったことがある。

それは音楽界のジェンダー観についてだ。

このお題の趣旨もわかる、わかるが、年末の記事でも触れたが、もはやジェンダーレスな時代の中で、「惚れる相手」が特定の性である理由もない。ともあれ、ホワイトデーの一週間で、コロナでこういうイベントも消えたことだし、またジャズやブルースの世界では、こういう世界もあることはわかる。以前指揮者の某氏と話をしていて、「かもめ」「雪」「岸壁」「ひとり」「泣いて」「男」「女」といった特徴的な言葉が続けば「なんちゃって演歌がつくれちゃうよねぇ」という話をした。もちろんこれは、音楽の世界におけるジェンダー観を揶揄する目的で適当に作っているわけで、こういう世界が良いというわけではない。

こういうテーマを考える時に思い出すのは、笹野みちるのことだ。僕が高校生の頃バンドブームがあって、その中で「東京少年」という一人称を「僕」と語る女性がメインボーカルのバンドだ。
笹の葉1995年に『Coming OUT!』(幻冬舎)という書籍を出版した。この本で笹野は自身が同性愛者であることを公表し、そしてさらに、『GIRL MEETS GIRL』というアルバムをリリースする(注1)。大変話題になったアルバムで、これは日本の音楽史における偉業だと思う。

手元に書籍がなくて申し訳ないのだが『Coming OUT!』では、「私はあなたが好きだ」という発言が全て、「ボーイ・ミーツ・ガール」に翻訳されてしまう、レコード会社だけでなく、メディアやメディアを支える現代社会の圧力を指摘していて深くうなずきながら読んだ。

人間が恋に落ちるとき、たぶん一回一回、「自分がヘテロセクシャル/ホモセクシャル」であることを確認しながら告白したりしないし、そもそも誰かを好きになるという感情はそういう風には生まれない。「気がついたら」自身がヘテロ/ホモセクシャルであるという以上の理由はない。笹野による今までのあらゆるジャンルが前提としていた、「男が女に」「女が男に」という無言の音楽界のジェンダー観への圧力に抗して問いかけが、やっと公に話ができるようになるまで、26年かかっている。

なぜこのテーマを「まちおん」で取り上げたかったかというと、実は都城の歴史と関係がある。都城は2003年12月に性的指向を問わない「男女共同参画社会づくり条例」を制定した極めて先駆的な自治体なのだ。その条文の男女共同参画社会の第一条での定義はこうだ。

第2条(1) 男女共同参画社会 性別又は性的指向に関わらずすべての人の人権が尊重され、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会を言う。(改正前)

ところが、2006年の都城市、山之口町、高城町、山田町、高崎町の合併の際に、この条文から「性別又は性的指向に関わらず」が削除される。これは現状の性的マイノリティをめぐる現状を見ると、都城はこの件では見誤ったと思う。日本で初めての性的マイノリティを認めた町になれたはずだったのにと思うと残念だ。(注2)

そんなわけで、こういう時にこそ笹野みちるの『GIRL MEETS GIRL』をぜひ手に取ってもらいたい。

(注1)なお「おはガール from Girls²」が2020年に女性同士の「友情」をテーマにした「Girl meets Girl」というシングルを発売しているのだが、こちらとはまったく関係がない。念のため。

(注2)この経緯については、以下に詳しい。ネットでも読めるのでぜひ読んで欲しい。栄留里美(2008)「地方都市のセクシュアル・マイノリティの権利が条例化するための条件から宮崎県都城市男女共同参画社会づくり条例の制定・再制定の動きを事例として〜」『人権問題研究』大阪市立大学Vol.8, pp.93-110