わだばドンキホーテになる 福島第一原子力発電所の廃炉作業とカリキュラム立案

周囲の方々にはお話をしたが、次に僕が取り組むべき仕事が決まった。僕が勤務するこの業界(研究)では、「次に取り組むべき仕事」というのは、他人から決められるということはない。今回取り組むべき仕事も、正確には「次に取り組むべき仕事を決めた」という能動的な行為として語られるべきなのだが、それでも「決まった」というどちらかというと他動的な仕事として表現したくなる。

「原子力発電所の廃炉作業に従事する人材育成カリキュラム」作成、という仕事である。

この仕事がいよいよ来月から本格的にスタートする。この仕事を引き受けたのは、完全に個人的な選択であり、断ることができたにも係わらず僕はこの仕事を引き受けた。すでに「モノを作る」という立場の学校の中で、「モノを壊す」ことを教えることになることに係わるあれこれについてはすでにここで言及したが、それ以外にも心中では踏ん切りが付かず、悩みは尽きない。

-

世の中には「不幸が起こることで、証明されること」というのがあったりする。かねてから原発の問題(特に土地取得プロセスの不透明さについて)について、また少数民族のDVの研究をしていたりする僕にとっては、そうした危惧されていた問題、ひいては「誰かの不幸」が発見されることでしか自分の研究意義は認められなかった。

○○という国で/貧しい人々が/△△という民族や/女性や子どもが、こんな酷い目にあっていて、これは現在の社会システムに係わる

というということを明らかにしようとする研究は、「酷い目に遭っている人々がいる」ことの事実を確認・証明することからスタートして、

ここでもし□□という行動をとらなければ、もっとヒドイことが起こる

という説明によってしか「究極的には」その研究の意義を証明できない。そしてもちろんその「もっとヒドイこと」が生じて欲しいわけではないが、もし世の中の条件が変わらず、その「ヒドイこと」が起こらなければ、自分の主張は全否定されてしまう。

はっきり言えば、僕のような社会問題に関わる研究テーマを抱える人間など、世の中にいない状態のほうが、世の中は安定して回っている。

社会問題に係わる研究テーマを扱う研究者にとって一番好ましいのは、「自らの研究テーマが必要とされない世界」だ。自分が無用な人間となればなるだけ、研究者の優秀さが認められるというのは逆説的だけれども、そこにしか社会問題の研究者のレゾンデートルはないと思う。

それは教育者としての立場も同じだ。悩んでいる学生に適切なアドバイスを下す「よい教師」などないほうがよい。思春期の彼らがごくごく僅かなシステムの変更などで悩まなくても良いのであれば、「よい教師」など必要とされない世界をくみ上げるために尽力するほうがよっぽど望ましい。学生の悩みは決して消えることはないけれど、鹿児島県の楠隼のような「女性だという先天的な理由で学べない学生が生じるような公立学校を作らない」というだけで、理不尽な悩みが消えるのであればそうするべきだと思う。
※楠隼については次のエントリーをごらんください。「鹿児島県立楠隼中学校・楠隼高等学校の創設について」。

-

現実に廃炉作業はだれかがしなくてはならない。そしてそのカリキュラム作成もまた誰かがしなくてはならない。そして、今回の場合はそれも寿命による停止ではなく、事故を起こして停止してしまった原子炉の廃炉作業だ。僕以上にこれからこのカリキュラムで学ぶ学生達は自己否定の感情が出てくるだろうとも思う。「モノを壊すやりがい」ももちろんある。そうした感情をもつ学生を否定するわけではないけれど、100年を越えると言われる廃炉作業の中で、必ずこういう問いにぶつかる作業員はでてくると思う。また仮に(というか絶対に来て貰わなくては困るのだが)やってくる作業終了のその日に、作業員達はどう考えるだろうか。人類史上始めて成し遂げることになるメルトダウンした原子炉の作業を誇りに思ってくれるか、それとも、廃炉で培った技術を翌日からの生活にどう生かすか途方に暮れるのだろうか。

もちろんこうした当方の想定事態が杞憂に終わるのであれば、そんな幸せなことはない。むしろ杞憂に終わることを強く願っている、というのが本音だ。

僕はドンキホーテになる道を選んだ。ただ、カリキュラムをうける学生達はドンキホーテになりたいわけではなかろうし、そういう道を国家が歩ませて良いわけでもない。

このブログを目にした数年後、数十年後の廃炉カリキュラムの受講生が、その廃炉カリキュラム作成に携わっていた人間がどう考えていたか、その一端を知っておいてもらえたらと思う。僕のこんな懸念など笑い飛ばせるような世界が来てほしいと思う。

僕は、廃炉カリキュラムを作る課程で生じる「自己否定」のこの感情は忘れないでいようと思う。