アユタヤ探訪

日本から姉がやってきた。姉とツマのリクエストで久しぶりにアユタヤへと向かった。

もう11年前になるがチュラロンコン大学に留学していた時分、時折知人に(というか先生方に)ガイドを頼まれることがあった。アユタヤにも何度かガイドとして行ったことはあったのだが、今回は久しぶりに僕自身も有意義に遺跡を散策することができた。

それは「楽しかった」ということではない。今回久しぶりにアユタヤにやってきて、自分がかつてこの土地に来る度に心が重くなっていたことを思い出した。「暗く・陰惨な気分になる」という意味において有意義なショートトリップであった。

アユタヤの歴史は1351年に王朝の首都として開発されたことによって始まる。そして、1767年のビルマ(現ミャンマー)との戦争によって崩壊する。かつて市内に存在した寺院はことごとく焼き捨てられ、仏像はことごとく壊された。その後政権をとったタークシン王はアユタヤの再興を断念し、現在のバンコクを流れるチャオプラヤ川の西部、トンブリー地区に王都を築きバンコク王朝がスタートする。

そのため現在アユタヤに残る遺跡は、その大部分が打ち壊されているもので、その遺跡に立つと徹底した破壊の様子に心が痛くなる。冒頭に掲載している菩提樹に取り込まれた仏頭は、アユタヤを象徴する遺物であるが、これもまたビルマ軍に打ち壊されたものの一部である。11年前のガイド時代に撮影した写真と異なり、菩提樹の根がますます大きくなって仏頭を飲み込もうとしている。冒頭の写真を見て、例えばアンコールワットのような(くだけていうと『天空の城ラピュタ』のような)、人類の忘れられた文明を思い起こすような感動的な物品かのように扱われるのを見ると、僕としては違うんじゃないか、といいたくなる。

人間の愚かさを示す物品なのだ、と、この仏頭を見る度に思う。

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またこの公園内には、やはりビルマ軍によって伽藍が徹底的に破壊されたため、火事のあとがいまでも生々しい。破壊を免れた仏像も野ざらしにされたまま配置されている。その姿は荘厳というよりも痛々しいように思う。こういった遺跡を見て感じることは、たぶん長崎の大浦天主堂で見た被爆マリア像を見た際のそれに近い。

かつて、サイードが東洋的なもの(オリエンタル)を西洋の知識体系の中で再解釈することを「知のカタログ化」と呼んだように、我々は「喜び・怒り・苦しみ・悲しみ」までも相対化してしまえる術を手に入れた。そしてアユタヤを訪れる観光客は、この土地を苦しみの土地とはみない。朽ち果てた廃墟をそのカタログの中に位置づける観光客が感じるのは「崩壊した(ロマンティックな)オリエンタルな遺跡」である。この遺跡群を崩壊させた主体/この土地で死んでいった多くの人々については思い起こすことはない。考えてみれば、アユタヤは日本人とも関連が深い。だがアユタヤと日本の関係について、日本史の教科書に登場する山田長政や日本人街の存在も、そのあと彼らが通った歴史を考えれば、暗いトピックでしかない。

「素敵なロマンチックな遺跡」と思う人達の心は変えられないし、変えるつもりもないけれども、時折アユタヤに足を運ぶと戦争の悲惨さや、オリエントなるもののカタログ化がどのように行われるか良く分かる。

なお、こうした戦争などの嫌な経験を再確認するようなツーリズムを「ダークツーリズム」と呼ぶのだ、と近頃あった研究会で知った。例えば広島原爆ドームやナガサキの原爆関連施設などがそうなのだという。まだまだ揺らいでいる概念のため、「誰にとって」ダークであるのか、「誰が」ダークなものとしてツーリズムを再編成しているのか、まだまだ考えなくてはならないテーマを多く含んでいる。

そして全く主観的な感想として、この遺跡群はダークツーリズムと呼ぶにふさわしい遺跡だと思う。もしこれからアユタヤに行かれる機会のある方は、そういったことも考えてもらえれば嬉しい。