友人の仕事

ブリング株式会社は、宮崎県日南市という九州人とカープファン以外にはあまり馴染みのない小さな市の小さな会社である。この会社の社長で、友人でもある島中星輝さんが発行しているメルマガMEDELマガジンがもうすぐ100号になる。島中さんのメルマガの記事はマーケティング、そして地域興しといったビジネスの記事が多いのだが、行間に彼の優しさがつまっていてファンがとても多い。

そしてこのメルマガ、なぜか時折僕も登場している。もちろん前もって連絡があるわけではない。褒められるとき(?)ばかりでなく、このように完膚なきまでに貶められる時もある。

三浦綾子さんの「塩狩峠」や「氷点」を読んで衝撃を受けました。今では人生のバイブル的な存在です。
物語の登場人物でキリスト教の人がたくさん出てきます。それはそれは穏やかで深い愛情を持ってます。特に塩狩峠の主人公は凄い。聖書に書いてある言葉をとことん貫き通します。「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とばかりに酷い仕打ちを受けてもめげることなく前進します。こんな人たちが世の中にはいるんだなぁと学生時代からキリスト教の方々を尊敬していました。
度々このメルマガに登場する友人、都城高専講師の吉井千周さんはクリスチャンです。当然のごとく愛情(とユーモア)に満ちあふれた人です。しかし、彼は「私の持つクリスチャンのイメージ」と少し違っていたのです。とにかく彼は怒るんです。それも烈火の如く。

実際に「烈火の如く怒っている」という表現が適切すぎるほど、僕はよく怒る(のだろう)。友人に指摘された意見に返す言葉も無い。

さて、この文章の続きなのだが、島中さんは「子宮頸がんワクチン」の副作用に苦しむ子どもに会い、その時に感じた感情を次のように続ける。

その状況を目の当たりにすると怒りがわいてくるのです。ギリギリと心が苛立ってくるのです。何について私は怒っているのか。悔しいことに自分自身でもよくわからないのです。
私の怒りの矛先はワクチン接種をした医者か、自治体か、国か、制度か、それとも無知で何もできない(しらない)自分自身にか。
私に動けることがあれば動きたい。でも何をどうすれば、何が解決できるのか光も見えない。いま出来ることは定期的にお見舞いにいくこと。子供たちを連れて行き、いつも通りの笑顔で接すること。そして、【人 名】のような副作用を起こす子を増やさないこと。彼女のことをせめて私の周囲だけにも知ってもらうこと。
薬とかワクチンとか詳しいことはわかりません。でも知らないことで危険が及ぶようなら情報発信しないと。
複雑な思いで鹿児島から帰ってきた時に思い出したのは吉井千周さんの存在でした。彼の持つ怒りのマグマは、もしかしたら私が体験した、この何とも言いようのない感情と同じだったのかもしれません。
愛があるからこそ、怒るのです。世間の無知さに、そして自分の無力さに。

「週刊!コミュニティメールマガジン【MEDEL】」vol.34,2014年6月2日発行、BRING(株)

実際のところ僕に「愛があるからこそ、怒る」だけの懐の深さがあるかどうかはわからない。わからないが、でも「自分の無力さ」について、僕は沢山怒ってきて、きっとこれからも自分があらがうことのできない社会の姿に怒っていくだろうし、自分の無力さにも怒るのだろうと思う。今年久しぶりにタイに来て体をなんども壊しているのも決してそのことと無縁ではなく、自分の無力さに発する怒りのエネルギーに負けてのことだろうと思う。

言うまでもなく、先のメルマガの話の中では僕はあくまでもダシでしかない。島中さん自身が心に「怒り」を感じていて、それでもその奥にある「愛」を信じているんだろうと思う。シャッター通りとなり廃れいく地方を、若者がどんどん離れていく街を、行き詰まった地方行政のふがいなさにも、現実社会でもネットでも人々が救われない状況を、(それを彼は決して「怒り」とは言わないが)その奥に「愛」を置きたいと願いながら、メルマガを発行し続けている

島中さんが作るメルマガは「ちょっとよい(講演会の)話」を寄せ集めて作った話ようなメルマガでもなく、美辞麗句ばかりで並べられたメルマガでもない。MEDELマガジンも実は「怒り」に満ちあふれている。ただし、その基礎にためらいながらも島中さん自身が「愛」を置こうとしてる。つらい現実を僕のように「怒り」でぶつかるのではなく、島中さんは「愛」で受け止めようとしている。
何を隠そう、島中さんは「まなび長屋」と同様に日南でリカレント教育を行う「振徳塾」の塾長でもあり、この数年の間に注目されるようになった宮崎県日南市躍進の立役者であることはあまり知られていない。日本から届く毎日のニュースをみてげんなりするのは今「世界情勢」とか「オリンピック開催国の威信」とか「世界に名だたる名門企業」といったような接頭語に続く形で様々な議論が行われていることだ。それも重要であろうがもっと身の回りに目を向けて良い。「宮崎における日南市の位置づけ」や、「広島カープのキャンプ地として有名な球場」や、「通りの人々に喜びを与えるコーヒー店と豆腐屋の話」は、国政と同じレベルで愛おしく、また不条理について怒っていい。新国立競技場の無駄な投資に怒るのなら、地方都市(例えば都城のような)失敗だらけの地域開発事業に怒ってもいい。

同様に沖縄や国会周辺に集まる若者達の「怒り」にもまた「愛」がある。ウヨク・サヨクというような二部構造に無理矢理落とし込んで互いを誹謗するのではなく、そこには互いに対して持つ根拠の違う「怒り」を持ちながら、その根底で「日本を守りたい」という愛を共有しているのだと思う。問題は、その着地点が日常生活に立脚せずに概念的な「美しい国ニホン」であったり、「平和国家ニホン」だったりするのはいただけないが。きっと「怒り」は自分の日々の生活と結びつき、そしてその時「怒り」の根底にある「愛」が、「怒り」を他人の言動を排する行為だけに収まらせずに世の中や人を変えていくのだと思う。

カトリック作家の遠藤周作は『沈黙』で次の様に書く。

魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸(ぼろ)のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。

国家を語り「美しいニホン」なんて魅力的で美しいフレーズを語るのはたやすい。なにしろ襤褸(ぼろ)のようになった地域と向かい合うことは「怒り」も多い。だが、地域興しの原点としては遠藤がいうようなそういった地域や人間を捨てぬ事すなわち「愛」が必要なのだろうと思う。

その小さな街で発行され続ける彼のメルマガがもうすぐ(といっても2ヶ月後に)記念すべき100号を向かえる。島中さん本人が言及しているようにビジネスに直接役立つかどうかはわからない。ただ、あと2ヶ月ほどで100号を迎えるこのメルマガを「100号継続して発刊されているから読者になった」のではなく、どうせなら一緒に100号を読む読者になってもらえたらと思う。彼のメルマガには現実と向かい合うことで産まれた「怒り」も「愛」も詰まっている。
※MEDELマガジンは以下のリンクから登録可能です。
MEDELマガジン