ナウシカ的学生とユパ様的教員

原発廃炉関係の仕事を終え少々複雑な気分で午後を迎えています。「原子力発電所を廃炉にするための人材育成」の鳥瞰図を書く仕事でした。

「モノを作る」学生を育てるはずだった高専で、「解体する」ための仕事をする人材を育成する、という今度の仕事をする心中はあまり穏やかではありません。中学生と接しながら、「モノを作る楽しさと感動」をプレゼンして回った僕には、「モノを壊すやりがい」とそれを上手く学生に伝えるコツを見つけ出せないでいます。

ただ、それでも思うのは、だれかが「モノを壊すやりがいを伝える」という仕事を引き受けなければならないとしたら、それは僕のような反原発運動に挫折した人間なのだろうと思います。福島第一原子力発電所の事故が生じたときに感じた「こういう事件が起こる前に建設も運転も止めることができなかった」というスティグマを僕はまだぬぐえないでいます。

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賛成派・反対派のポジションはともかくとして、私たちの技術はこれまで「作ること」にウェイトを置き、「解体すること・無害化すること」については、あまり深く考えてきませんでした。特にそれは理系的な発想ではなく、人文社会科学的な素養が必要となるものです。

例えばフィンランドの長期貯蔵施設には半減期10万年というとんでもない放射性物質を保管するために、「10万年後の人間にどうやってこの土地の地下深くに放射性物質が眠っているかを伝えるか」ということが真剣に議論されています。

私たち人類が文字を持ってたかだか3,000年ちょっと。この間に廃れていった文字もあり、王の威厳を示すために作られた石碑は崩れ、またはISなどを例に出すまでもなく政治的な理由・紛争・戦争によって数々のモニュメントも壊されていく中で、人類はだれも「10万年を超えて情報を伝達する方法」を考えだすことができていません。ちなみに10万年前というと旧石器時代。この時代の石器が発見されることが稀少なのはみなさんご存じの通りです。たとえ英語で書いたとしても、その言語を10万年後の人類がわかってくれるかどうか。たとえ文字や言語をチタン合金に彫りつけたとしても、10万年の風雪に耐えられるかどうかはわからないとのことです。

そして間違いなく、こうした分野において貢献できるとしたら、(いわゆる)理系の学問ではなく、現在の教育再生会議が否定しようとしている人文社会科学です。理系的な発想でいえば、「地中深く埋めて、10万年間保管すれば良い」というだけのことなんでしょうが、まさしく「保管する」という行為の持つ政治性と、その主体である「人間」について想像することができる能力は、人文社会科学系の学問しか寄与できないところだと思っています。

その意味でも僕は、この国で原発廃炉に関する人材を育てるという試みが、現在の文科省の体制の中でどれだけできるのか不安でしょうがないというのも事実です。

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さて、Sputnik日本の記事で「福島第1原発事故からの回復には100年と5000億ドルがかかる」というなかなか刺激的なタイトルの記事が回ってきました。100年というと標準的な人間の一生よりもながく、5000億ドルというと、1ドル=120円で計算すると、約60兆円となるでしょうか。

どうやら元ネタは以下のURLの様です。Sputnik日本の記事はコンパクトにまとめすぎで、要点が分かりにくくなっていますが、英語が読める方はリンク先をぜひお読み下さい。なかなか刺激的です。

この「100年と、60兆円かかる『先人のゴミを片付ける作業』」の概算がどれだけ正確な値なのか論証は必要ですが、あながち間違えた数字でもないように思えます。そしてこの気の遠くなるような作業に学生はやりがいを見つけることができるのか。それは人類史上まれな「壊すための新しい産業」の誕生です。ただ、今話題の安保法案の可決の裏で、伊方原発も原子力規制委審査に「適合」したそうですが、僕には学生に自信を持って「解体産業」を勧めることはできそうにありません。

今話題の安保法案について「日本を守る」ため、という文言をやたらと聞きますが、福島の被災者の現状を見るにつれ(またその他の日本の社会問題に押しつぶされそうな人々を見るにつれ)、「もともと守られていない『日本の多くの人々』を『守る』」という偽善性に反吐がでそうになります。私たちの国日本は、ミナマタや、被差別部落、ハンセン氏病、女性差別、学歴差別、貧富格差、非正規雇用問題、LGBTなど様々な問題を抱えており、それらの人々は決して日本から守られていたわけではありません。

「安保法案改正派から先に戦場へ」というもっともな文言がネット上に多く流れていますが、「原発推進派から先に廃炉作業へ」というのも僕は心底お願いしたいと思っています。

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ここまで書いて、こうした「原発を廃炉にする技術」の話が宮崎駿の『風の谷のナウシカ』に現れる不老不死(ヒドラ化)の技術を守るヒドラ化した僧侶たちの話と重なっていることに気付きました。宮崎駿自身が反原発・反戦論者ということもあり、「火の7日間戦争」という核戦争後の世界のメタファーを用いて、「科学の行きすぎた社会」「科学を盲信する社会」のおぞましさを描いていたように思います。

多分、このプログラムを終了した学生達はナウシカの様に腐海を浄化させる作業に従事することになるのでしょう。そしてこうしたプログラムを作る我々はユパ様のように技術に通じるだけでなく、「モノを壊す技術」について、その悲しみを知り尽くす深い思想を持つ哲学者でなければならないのかもしれません。